
小島冨佐江/特定非営利活動法人「京町家再生研究会」理事・事務局長
京都市伏見区生まれ。同志社大学卒業。1985年の結婚を機に、百足屋町の元呉服商の町家で暮らす。義父の相続にかかわり、都心部の町家の問題に直面。これをきっかけに、京町家再生研究会活動に参加、97年から事務局長となり、海外も含め、町家の再生活用、周知など精力的な活動を続けている。町家に対する理解を深めてもらうための広報を担当し、町家居住者と再生の専門家をつなぐコーディネーター役を務める。また、自宅を拠点に、「京町家歳時記」を主催している。
主な著書は、「京の町家 丁寧な暮らし」「京町家の春夏秋冬」など。
京都市伏見区生まれ。同志社大学卒業。1985年の結婚を機に、百足屋町の元呉服商の町家で暮らす。義父の相続にかかわり、都心部の町家の問題に直面。これをきっかけに、京町家再生研究会活動に参加、97年から事務局長となり、海外も含め、町家の再生活用、周知など精力的な活動を続けている。町家に対する理解を深めてもらうための広報を担当し、町家居住者と再生の専門家をつなぐコーディネーター役を務める。また、自宅を拠点に、「京町家歳時記」を主催している。
主な著書は、「京の町家 丁寧な暮らし」「京町家の春夏秋冬」など。
京都市中京区にある私の家は、明治時代の建物で110年ほど経っており、京町家再生研究会の本部にもなっている。この家を、一昨年、半年くらいかけてなおした。正面も内部も、最初建てられたものから、大分変っていた。例えば、格子戸は便利だからとガラス戸に。2階の虫籠窓(むしこまど)も普通の窓になっていた。中も、モダンだと言うことだったのだろう、至るところ合板張りで、不思議な改修をされた家になっていた。屋根がさすがに古くなり、雨漏りも心配。それで一念発起、できるだけ元通りにと、改修に踏み切った。合板はすべてめくり、腐っていた柱は切り取って「根継ぎ」という伝統的な技術を使い、昔どおりになおしていった。
今の日本の建築基準法では、コンクリートで基礎をつくり、柱と基礎がつながるようにしないといけないが、あえてそれはせず、石の上に柱がトンと乗っているだけ。何かの時は、建物だけがポンと離れるようにした。これが伝統的な木造建築、そのなおし方なのだ。研究会の本部となっている私の家は、地震の振動が大学のデータとして取り込まれるようになっているので、地震があった時は改修した家の揺れ方に変化が表われるのではないかと、分析の結果を待っているところだ。
ところで、町家のはじまりは洛中洛外図にあるような、板葺き屋根に石を置き、表に店、奥に部屋、その横に通り庭という表から奥まで貫く土間があるというもので、とてもシンプル。敷地の形や大きさで、部屋の増減などいろいろ違いがあっても、この土間の存在は町家の特徴で、その上は吹き抜けになっている。この土間と吹き抜けが、木造の町家を水と火から守るすぐれた知恵である。しかし、昭和30~40年ころから、台所や子ども部屋を作るために、そこに天井、床を張り、町家を湿気や火の気から守ってきたこの知恵が失われてしまった。今度の工事でわかったのだが、私の家も中庭に床を張って事務所にしてしまっていたので、その下になった隅っこの柱は根元がすっかり腐ってなくなっていた。風通しが悪くなっていたのだろう。改修で中庭を復元したところ、すっかり風の通りが変わり、家の中は、風の通りが良くなり夏の暑さもしのいでいる。冬の寒いのは変わらないが、昔どおりの建て方が自然であったかということだろう。
私は、結婚して伏見からこの家にやってきて、その時、両親がとてもこの家を大事にしてきたことを知った。祖父がこの家を譲り受けた時「この家をあずからせてもらいます」と言ったことが、家族に語りつがれている。私は母からそのことを聞いた。だから、私もその想いを大切に暮らしている。家族の思いがつまった家を、私の勝手で潰すことはできないと思っているし、同じ思いを持っている方々はたくさんいらっしゃる。しかし、バブル期のころ、住んでいるだけなのに、家が街中にあるというだけで、ぼう大な相続税がかかり手放さざるを得ないということが私の周りでもたくさん起こった。私が町家再生に関わりを始めた原点は、この理不尽な相続税を何とかしたいという思いだった。そのために、町家というものをきちんと理解してほしいと京町家再生研究会の活動に加わってきた。15年ほどして、やっと景観法の中で相続税が考慮されることになり、一定の成果は上がってきている。次は建築基準法の番である。これを変えないと、伝統的な日本の家は、すべてだめになると思う。
昨今、着物、お茶、お花、日本舞踊など、多くの伝統的なものの継承が難しくなってきている。実は、その足元にあるのが町家である。畳に座る日本の住居の住まい方と伝統文化は深くかかわっている。それは、地域とのつながりにも大きくかかわっている。その町家が揺らいで、どうして伝統芸能や伝統産業が残っていけるだろう。町家一軒の問題が、地域も町すらなくなることにつながっていくのだ。
京町家は今、ブームの感がある。そんなことに惑わされず、映画の書割のような町家でない、ほんものの町家を残し、新しい町家を建てられるよう一生懸命活動していかなければならない。そう、心している。
今の日本の建築基準法では、コンクリートで基礎をつくり、柱と基礎がつながるようにしないといけないが、あえてそれはせず、石の上に柱がトンと乗っているだけ。何かの時は、建物だけがポンと離れるようにした。これが伝統的な木造建築、そのなおし方なのだ。研究会の本部となっている私の家は、地震の振動が大学のデータとして取り込まれるようになっているので、地震があった時は改修した家の揺れ方に変化が表われるのではないかと、分析の結果を待っているところだ。
ところで、町家のはじまりは洛中洛外図にあるような、板葺き屋根に石を置き、表に店、奥に部屋、その横に通り庭という表から奥まで貫く土間があるというもので、とてもシンプル。敷地の形や大きさで、部屋の増減などいろいろ違いがあっても、この土間の存在は町家の特徴で、その上は吹き抜けになっている。この土間と吹き抜けが、木造の町家を水と火から守るすぐれた知恵である。しかし、昭和30~40年ころから、台所や子ども部屋を作るために、そこに天井、床を張り、町家を湿気や火の気から守ってきたこの知恵が失われてしまった。今度の工事でわかったのだが、私の家も中庭に床を張って事務所にしてしまっていたので、その下になった隅っこの柱は根元がすっかり腐ってなくなっていた。風通しが悪くなっていたのだろう。改修で中庭を復元したところ、すっかり風の通りが変わり、家の中は、風の通りが良くなり夏の暑さもしのいでいる。冬の寒いのは変わらないが、昔どおりの建て方が自然であったかということだろう。
私は、結婚して伏見からこの家にやってきて、その時、両親がとてもこの家を大事にしてきたことを知った。祖父がこの家を譲り受けた時「この家をあずからせてもらいます」と言ったことが、家族に語りつがれている。私は母からそのことを聞いた。だから、私もその想いを大切に暮らしている。家族の思いがつまった家を、私の勝手で潰すことはできないと思っているし、同じ思いを持っている方々はたくさんいらっしゃる。しかし、バブル期のころ、住んでいるだけなのに、家が街中にあるというだけで、ぼう大な相続税がかかり手放さざるを得ないということが私の周りでもたくさん起こった。私が町家再生に関わりを始めた原点は、この理不尽な相続税を何とかしたいという思いだった。そのために、町家というものをきちんと理解してほしいと京町家再生研究会の活動に加わってきた。15年ほどして、やっと景観法の中で相続税が考慮されることになり、一定の成果は上がってきている。次は建築基準法の番である。これを変えないと、伝統的な日本の家は、すべてだめになると思う。
昨今、着物、お茶、お花、日本舞踊など、多くの伝統的なものの継承が難しくなってきている。実は、その足元にあるのが町家である。畳に座る日本の住居の住まい方と伝統文化は深くかかわっている。それは、地域とのつながりにも大きくかかわっている。その町家が揺らいで、どうして伝統芸能や伝統産業が残っていけるだろう。町家一軒の問題が、地域も町すらなくなることにつながっていくのだ。
京町家は今、ブームの感がある。そんなことに惑わされず、映画の書割のような町家でない、ほんものの町家を残し、新しい町家を建てられるよう一生懸命活動していかなければならない。そう、心している。

