
神谷雅子/(株)如月社 代表取締役、京都シネマ代表、立命館大学産業社会学部教授
1980年 立命館大学文学部卒業、1990年 京都朝日シネマ支配人、2003年1月 惜しまれつつも閉館(閉館を惜しむ署名全国から7,000人以上寄せられる)。同年3月如月社を設立、2004年12月 京都シネマをCOCON烏丸に開業。2004年立命館大学産業社会学部講師、2008年同教授。2005年度京都府あけぼの賞受賞。著書に「映画館ほど素敵な商売はない」
1980年 立命館大学文学部卒業、1990年 京都朝日シネマ支配人、2003年1月 惜しまれつつも閉館(閉館を惜しむ署名全国から7,000人以上寄せられる)。同年3月如月社を設立、2004年12月 京都シネマをCOCON烏丸に開業。2004年立命館大学産業社会学部講師、2008年同教授。2005年度京都府あけぼの賞受賞。著書に「映画館ほど素敵な商売はない」
COCON KARASUMAの前身、旧丸紅ビル。1938年に建てられた繊維商社の本社ビル。幸いにも戦火を免れ、敗戦後連合軍占領下でGHQの京都本部が置かれたビル。その名残は、ビルの床や、趣のある階段にしっかりと残っている。
2002年12月。まだリノベーション(再生)後の構想が固まっていなかった肌寒かったあの日。このビルに初めて足を踏み入れた日のことを鮮明に覚えている。電気は当然ない。薄暗い中、懐中電灯を頼りに地下一階から屋上まで、歩いて、見て回った。地下には理髪室があった。厨房の名残もあった。2階、3階には、畳が敷かれた展示スペースのコーナーもあった。四条烏丸という京都の真ん中に、これから新しく生まれ変わろうとするこんなビルがあったのだという驚き。そして、この場所に映画館をつくりたい。ここでなら、必ず成功させられる。何としても、ここで、という強い思い。あの日の思いが、今の京都シネマの原点だ。
2002年12月。まだリノベーション(再生)後の構想が固まっていなかった肌寒かったあの日。このビルに初めて足を踏み入れた日のことを鮮明に覚えている。電気は当然ない。薄暗い中、懐中電灯を頼りに地下一階から屋上まで、歩いて、見て回った。地下には理髪室があった。厨房の名残もあった。2階、3階には、畳が敷かれた展示スペースのコーナーもあった。四条烏丸という京都の真ん中に、これから新しく生まれ変わろうとするこんなビルがあったのだという驚き。そして、この場所に映画館をつくりたい。ここでなら、必ず成功させられる。何としても、ここで、という強い思い。あの日の思いが、今の京都シネマの原点だ。
京都の新しいランドマークとしての施設を作る、という方針のもと、いくつかの構想があり、いくつものハードルを乗り越え、アート系の市民に支持される映画館への期待を寄せられて、2004年12月4日開業。お客様に「また再会できてうれしい」「開業してくれてありがとう」と声をかけられた。歴史にifはないが、「京都朝日シネマ」閉館が別の時期だったら、残念ながら「京都シネマ」は存在していない。そんなこともふと思う。
縁、出会い、その絶妙のタイミング。チャンスの神様は前髪しかない、と言われるが、それが“前髪”かどうか、判断できるのは、じつは掴んだ後だ。4年が過ぎ、あの時「ありがとう」と言われた言葉にふさわしい映画館であり続けられているかどうか、いつも自問自答している。
縁、出会い、その絶妙のタイミング。チャンスの神様は前髪しかない、と言われるが、それが“前髪”かどうか、判断できるのは、じつは掴んだ後だ。4年が過ぎ、あの時「ありがとう」と言われた言葉にふさわしい映画館であり続けられているかどうか、いつも自問自答している。

京都朝日シネマ
京都は、110年前、日本で初めてシネマトグラフが試写実験された場所であり、今も、二つの撮影所を持ち、映画をつくり続けている映画都市だ。日本の、世界のあらゆる国の映画を上映するだけでなく、欲張りな企画をたくさんしてきた。学生映画の特集、関西で映画をつくり続けている人たちの作品上映、京都の音楽家とのコラボレーション、無声映画「瀧の白糸」(1937年)のオリジナル曲による演奏付き上映会、科学映画講座、映画づくりワークショップなどなど。ホワイエでは、映画関連商品以外にフェアトレード商品の販売も始めた。
COCON KARASUMAの名前に込められた思い。「古今東西の様々な文化を横軸に、京都の歴史と伝統を縦軸に、人、文化がクロスする場所 烏丸」。
これからも、その場所にふさわしい映画館であり続けたい。
COCON KARASUMAの名前に込められた思い。「古今東西の様々な文化を横軸に、京都の歴史と伝統を縦軸に、人、文化がクロスする場所 烏丸」。
これからも、その場所にふさわしい映画館であり続けたい。

「闇の子供たち」での阪本順治監督舞台挨拶
