COCON KARASUMA:古今烏丸ウェブサイトのRSSフィード http://www.coconkarasuma.com/column/ COCON KARASUMA:古今烏丸ウェブサイトでは、各種最新情報をRSS配信しています。 ja copyrights©cocon karasuma all rights reserved. Sat, 01 Mar 2008 09:00:00 +0900 Fri, 10 Sep 2010 03:40:47 +0900 http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss/ info@coconkarasuma.com webmaster@coconkarasuma.com コンテンツマネージメントシステム「コモソ」 Presented by COCONOE INC. 4.0 http://www.coconkarasuma.com/ http://www.coconkarasuma.com/img/logo.gif 78 72 COCON KARASUMA:古今烏丸のロゴ。 Vol. 22 「“ほんもの”溢れる京都の新しい街並みに」川﨑 仁美 http://www.coconkarasuma.com/column/20100812181930779.html
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©日野和恵
川﨑 仁美/
伝統盆栽 美術・研究家

1980年、京都市生まれ。京都文教短期大学卒業。幼少期から和洋さまざまな習い事を体験。能や社寺鑑賞、和装着付けなど、日本の伝統文化に心酔。高校3年生の時、「日本盆栽大観展」で盆栽と運命的に出会う。会場で、専門誌にスカウトされモデルに。その一方、美術面や地域性の視点から盆栽の魅力に迫り、伝統盆栽の研究家、展示コーディネーターというジャンルを開拓、個展などで独自の情報を発信する。2008年、チェコでの「日本盆栽ポートレート」が斬新な鑑賞方法として話題に。昨年から「大観展」の企画と広報を担当。「新しい鑑賞の方法を提案し、盆栽ファンを増やしたい」と11月の同展開催へ意欲を燃やす。来年、盆栽の「教科書のような」著作を発刊の予定。
 学校帰りだったか、たまたま目にした「盆栽大観展」のポスターが運命的な出会いの予兆だった。「そういえば、盆栽も日本の文化。まだみたことなかったな」― 高校3年生のそのころ、私は、もういっぱしの「日本の伝統文化通」を自負していた。それなのに知らないのは恥と、早速、みやこメッセの会場へと足を運んだのだった。
 軽い気持ちのはずだったが、それは、何と過剰なまでの強烈な体験に。樹齢300年という黒松の前で、私は釘づけになったのだ。見方も何もわからないのに、直感的に「すごい。これは(神が乗り移る)依代(よりしろ)や!」-雷に打たれたような衝撃。それは全身を駆け巡り、10分以上も動くことができなかったろうか。劇的な出会いとなった。と、かけられた声でわれに返った。黒松の盆栽を前に、呆然とたたずむ制服姿の女子高生、よほど不審だったのだろう。私は、またその呼びかけに「これって依代ですね」と唐突に応じてしまい、さらにびっくりさせたようだった。その人は、盆栽専門誌の編集長で、私は、その場で、その雑誌のモデルを務めることが決まった。こうして、18歳の女子高生が、考えもしなかった盆栽の世界に分け入っていくことになるのだった。
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『黒松』
 京都に生まれた私は、芸事の好きな両親ということもあり、お能には小さな時から接し、何よりも、あらゆるお稽古ごとを習わせてもらった。もちろん、日本の伝統的なものばかりでなく、ピアノやクラシックバレエなど西洋のものも欠かさず、十数種類以上にのぼった。ただ、その中で、私は、日本の伝統的な世界に強くひかれていき、また、着物姿がよく似合うとほめられ、ずいぶん気をよくし、実際、お茶やお華など、和の習いごとはよく身に付いた。そのことは、中学時代、阪神淡路大震災の時、最後に何を持って逃げるかということが話題になった際、決定的に意識された。「ものは役に立たない。身に付いたものこそ残って役に立つ」。特に、そろばん、習字という日本の昔ながらの習いごとが、日々の役に立つことを実感していた。和へのこだわりは、こうして強まり、高校に行ってからは、学校のクラブ活動で、日本舞踊を習い、和装着付けを体得。下校時には、高校近くの観世会館にいってお能を見たり、社寺を訪ねたり、ちょっと普通の女子高生とは違った学園生活だったと思う。私は、小さな時から「生き字引のようなおばあさん」になりたいと思ってきたが、それで、一風変わった高校生活を送り、やがて、前述した盆栽との出会いに導かれていったのだろうか。
 盆栽専門雑誌のモデルとなり、職人さんからマンツーマンでの指導を受け、盆栽づくりも体験した。盆栽の奥深さに感銘する一方で、そのすごい世界に触れ、私は、自分で作って楽しむことより、この美しさや観賞の方法を多くの人に説明する役割を担いたいと思った。多くのプロはだしのアマチュアもいて、ハウツー本もたくさんあるが、園芸関係以外のたとえば美術的、社会学的視点からの体系だった研究も、広く盆栽が何なのか語れる専門家もいない。私の出番があるのではないか。そう感じて、10年以上、地域によって作品がどのように違うか、もっと多くの人に見てもらうにはどうしたらいいか、「そんなもの必要ないだろう」と職人さんに笑われながら、しぶとく活動を続けてきた。
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2009年、京都大学総合博物館「日本盆栽〜自然のなかの人工美〜」でのトークショーの模様 ©林口哲也
 「BONSAI」は世界中ブームで、外国のほうがひょっとすると、本場の日本より活発かもしれない。でも、似て非なるという思いがする。たとえば、日本の伝統盆栽には「正面美」という言葉がある。盆栽はどこからでも観賞できるが、その盆栽のすべてがわかるという究極の一点を正面に据えるという約束事だ。ここに盆栽の神髄がある。この意識は、外国の盆栽にはない。
私は2008年、5点の名品の究極の一点を、実寸大の写真にして展示するという個展をチェコで開いた。それは、日本文化を象徴する盆栽の究極の美を、現代芸術で表現するという試みで手ごたえを感じた。これからも、1000年以上の歴史があり、深い精神性も秘めた伝統盆栽の素晴らしさを見出し、全く新しい表現方法や素材など工夫しながら、さまざまに発信していきたいと思っている。

 ところで、私の育った京都は、こうした伝統盆栽を再発信するには、最適の場所と思う。実は、京都の街は盆栽と似ているのである。何百年も前から、盆栽は変わらぬ姿をしている様に見えるが、生き物。毎日変わっている。そのためには、何と、最先端のバイオ技術も駆使されていることをご存じだろうか。京都も1200年、伝統を守り続ける一方で、素晴らしい目利きの力で、さりげなく新しいものを常に取り入れ、街の姿を維持してきた。どちらも、継続の知恵があり、時間と手間をかけることが値打ち、という共通性がある。つまり「ほんもの」ということだ。京都が多くの人を引き付けてやまないのは、この「ほんもの」ゆえと思う。昨今、烏丸通周辺は、時々、映画を見るCOCON烏丸のビルなど、昔のオフィス街から新しいにぎわいの街へと変わろうとしているように感じる。私の趣味としては、数寄屋造りとか日本の伝統的な建物や内装というもので、街づくりがされたらと思うが、烏丸通が、時間と手間をかけ、時代の経過とともによくなっていくような「ほんもの」の街へと変わっていくことを願っている。
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『真柏』
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20100812181930779.html Thu, 12 Aug 2010 18:19:30 +0900
Vol. 21 「烏丸・室町通周辺をアートで賑う界隈に」近藤 髙弘 http://www.coconkarasuma.com/column/20100706155438356.html
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近藤髙弘/陶芸・美術作家
1958年、京都市に生まれる。82年、法政大学文学部卒業。伯父の死をきっかけに、卓球一途の人生から、陶芸の世界へ。京都府立陶工訓練校修了、京都府立工業試験場修了後、近藤家代々の染付など手掛ける。90年のサンパウロ美術館での個展「Works Sometsuke」を機に、現代アートへ傾斜し個性的な造形作家へと転じる。94年、京都市芸術新人賞受賞。時空壺、銀滴など独特の造形作品による個展を国内外で活発に展開した後、2002年から、文化庁派遣芸術家在外研修員として英国エジンバラ国立芸術大学に留学。09年11月には、窯そのものが作品でもある穴窯「天河火間」を奈良県の天河大辨財天社に造営し話題を集める。
 京都・清水の陶芸家の家に生まれた私だが、すんなりと陶芸の道に進んだわけではなかった。私が夢中になったのは、卓球。今、OB会の会長をしている今年創部70年の東山高校、法政大学へと進み、そして社会人の協和発酵まで、とにかく卓球に明け暮れる毎日だった。だが、陶芸の世界へ振り返させられる大事件が起こる。京都市立芸術大学の教授をしていた陶芸家の伯父(豊)の自死である。名状しがたい衝撃だった。「陶芸は、人が死ななあかんほど深い世界なのか」。それなら、やってみたろか! そういう気持になった。25歳の春。それで京都に戻り、陶芸を一から始め6年ほど。そのころには、どうやら染付など伝統的な仕事はできるようになっていた。もちろん、祖父(近藤悠三)や父(濶)たちの技法を真似ているだけのレベルだったのだろうが、自分では、この道でなんとかやっていけるなという自信めいたものは出てきていた。   
 ところが、その後の生き方を決定づける経験をする。1990年、ブラジルの日系紙が主催するサンパウロでの展覧会のことだった。伝統的な染付作品を展示した会場にやってきた芸術家たちは、「なぜ青で描くのか」「キャンバスには描かないのか」-何と、思わぬ質問をするではないか。しかし、彼らの言いたかったのは「作家として一体何が表現したいのか」ということだったと思う。私は、はっとした。そうか、伝承だけでなく、自分の思想や内面性を明確に表現することこそ大事なんだ。モダニズムの洗礼を受けた私は、このブラジルの展覧会で「作家」としての自我に目覚めた。この体験がなければ、未だに近藤家の伝統的な染付をやっていたかもしれない。
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「Mist」
 それからは、もちろん土から離れることはなかったが、現代におけるアートとは何か、自己のオリジナルを求め、新たな造形作品に挑戦し続けた。そして、40代も半ばの2002年には、英国のエジンバラ国立芸術大学に1年間留学し、焼き物から離れ、ガラスなど異なった素材の研究に没頭。ブラジル以後は、こうした経緯で、陶芸家のカテゴリを意識せず、美術作家として、銀滴やミスト、最近のオイルシリーズなど金属やセメント、ガラスなどの素材を土と融合させるなど独自の作品づくりを手がけてきたのだった。
 今年は、陶芸・アートの道に入って25年、そして、伯父が亡くなった50歳という年齢も越えたので、一つ自分の総括をしようと思っている。いわば近藤髙弘の「死と再生」である。これまでの様々な自分の技法を、自らの顔に表現するというコンセプトの作品「セルフポートレート展」を10月に開催する。果たしてその後は、一体どんな近藤髙弘になるのか…。
 まあ、それはそれで、このように、陶芸・美術作家として生きてきた自分を見つめてみる時、生まれ育った京都は、つくづく面白い街だなと気づかされる。先端と伝統の併存はよくいわれることなのだが、1200年、常に伝統を受け継ぎ、そこに海外のものも含め最新の技術、情報を取り入れ、渾然一体に融合し自分のものにしてきた歴史が、京都にはある。それが、日本のオリジナルとして京都独特のバックグラウンドとなっている。陶芸の世界でも、中国の技術などに大きな影響を受けながらも、徐々に日本化してきた歴史は周知のこと。個人作家が生まれてきた明治時代以降、西欧から学び、巧みに伝統の技に融合して近代化という日本独特の工芸美術を生み出してきた例がある。
 ただ、私が今年、自分自身の総括を行うように、日本も京都も、ちょうど明治以降の近代化が一巡したと思われる今、現状を見直す時期に来たのではないだろうか。つまり、日本の伝統がどうモダニズムと融合してきたかを様々に検証し、これからの京都の姿はどうあるべきかを真摯に考える時なのではないかと思うのである。
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「Oil&Water」
 例えば、私は旧明倫小学校を利用した京都芸術センターがあり、町家も残る室町通や近代遺産ともいえる建物のある烏丸通に注目している。アーティストとしての提案なのだが、京都の独特のたたずまいを残す烏丸、室町界隈を、町家なども活用したギャラリーの集中する地域にできないものだろうか。京都には、ギャラリーは結構あるが、それぞれが離れ点在している。たとえば私が個展を開くニューヨークのチェルシー地区には、ギャラリーが300軒(最盛期)以上も集まっていて、そこを回るだけで半日十分遊べ、刺激も受ける。展覧会のオープニングの日は統一されているので、多くのアート関係者がチェルシーにやってきて、各ギャラリーをはしごして廻り交流が実現するのである。いわば、芸術による賑いの創出とでもいえばいいか。烏丸、室町通の界隈に、もしギャラリーが20~30軒集まったとしたらどうだろう。まさに個性ある芸術的コンテンツを持つ京都からの文化発信が実現し、日本の新しいアートシーンとして、注目されるのではないだろうか。もちろん新しい観光スポットになるのは間違いないだろう。COCON烏丸のビルも、近年、この界隈のランドマークとなったと聞くが、ギャラリーの拠点的存在になっていただいたら京都がまた面白くなる。
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パラミタミュージアム「変容の刻」個展より
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20100706155438356.html Tue, 06 Jul 2010 15:54:38 +0900
Vol. 20 「格調高く品格ある烏丸通をつくりたい」渡部 隆夫 http://www.coconkarasuma.com/column/20100520101648224.html
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渡部 隆夫/ワタベウェディング(株)会長、烏丸通沿道懇談会座長
1941年、京都市生まれ。京都府立山城高校卒業後、東京の貸衣装店勤務を経て、61年、母が創業したワタベ衣裳店に入店。73年、業界で初めてハワイに出店して海外結婚式ビジネスを開拓、78年代表取締役社長に就任。96年、「ワタベウェディング」に社名変更し、総合ブライダル企業をめざす。97年には業界で初めて株式上場(現在、東証1部、大証1部)を果たす。2004年、名門の結婚式場、目黒雅叙園を買収。08年には、ゆうちょ財団からホテル・結婚式場のメルパルク事業を継承。同年、ワタベウェディング株式会社会長となり、社外では、日本ブライダル事業振興協会副会長、京都経済同友会特別幹事、関西ニュービジネス協議会常任理事などを兼務する。
 長年、観光地として人気を上げ続ける京都を見てきて、近年つくづく感じることは、「街がずいぶん荒れてきたな」「京都が、普通の都市と同じようになってきたな」ということだ。具体的にいうと、京都を代表する繁華街や商店街の賑わいが、随分と俗っぽく、あるいは低俗になり、京都が持ち続けてきたすばらしい品格を伴った固有性というものを失いつつあるということ。京都で生まれ、育った者として、このことに非常な危機感を覚え、「何とかしないといけない」「行政に任せるばかりでなく市民として立ち上がらなければならない」と、思ってきた。
 そんな折、烏丸通で動きが出てきた。烏丸通に住んだり、勤務地とする者、地権者が何人か集まり、烏丸通を京都のメーンストリートにしていこうと、2008年に「烏丸通沿道懇談会」を立ち上げることになった。その目的は、風俗店や無表情なマンションが建ち並ぶありふれた街並みではなく、さまざまな規制も行い、烏丸通に品格のある賑わいを作り出そうというものだった。元々、烏丸通は金融機関や企業の入居するビルが建ち並ぶオフィス街で、土、日はほとんどシャッターを閉めてしまうといった、賑わいの街からは程遠いものだった。しかし、最近になって「COCON烏丸」の登場をはじめとし、銀行の支店ビルなどに有名ブランドが入ったりして、烏丸通の雰囲気が変わってきた。懇談会の立ち上げには、このような背景もあり、この機会に烏丸通を本当に格調高い京都のメーンストリートにしよう、という機運が関係者の間で盛り上がった。私は、新しい賑わいのスポット「COCON烏丸」では買い物や食事を楽しむし、烏丸通に本社を構えている者として張り切らざるをえず、懇談会の座長をお受けすることになった。
 懇談会を立ち上げて2年が経過しましたが、その間、風俗店や深夜営業の店の規制、また、マンション建設に際しては、通りから20メートルのセットバックがなければ建設できないなど、行政と一緒になっていろいろな法的規制をかなりのスピードで実現してきた。さらに年末には、街路樹などをクリスマスイルミネーションで飾って、夜の明るい賑わいを演出したりするなど、烏丸通は、京都らしい本物の品格にあふれた通りとして着実に生まれ変わりつつあると感じている。京都のお寺や神社はもちろんすばらしいが、それだけではない。京都には烏丸通という、高い都市格にふさわしい、賑わいにあふれたメーンストリートがある。このことが、京都市民はもちろん、多くの観光客のみなさんにも認知されてきたのではないだろうか。
 私は、両親が戦後(太平洋戦争の敗戦後)すぐに始めた婚礼衣裳店を継いだのだが、この商売をやってつくづく京都のブランド力のすごさを実感した。例えば、1973年に、ブライダル業界としては初めてハワイに店を出した。東京には、資本力の大きな店が何社もあるのだが、当社が先駆けた。これは、提携した旅行会社が、「京都」というブランド力を評価してくれた故だ。着物の生産・集散の中心である西陣、室町があり、お茶やお花、さらには多くの花街も有する京都は、衣裳の種類や量も豊富なばかりか、それにともなうソフトや婚礼のノウハウは、他の地域の追随を許さない。
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 京都を本社とする当社は、そういう意味でとても有利で、このことを東京の旅行会社などが認めてくれた。ほんとうに、京都のすばらしさを最大限活用させて頂いたと思っている。この恩返しの意味でも、だんだん薄っぺらになることが心配な京都のすばらしさを、何とか失うことなく取りもどしたい。そのお力になりたいと思っている。今、京都は、年間5000万人が訪れる観光地となり、その人気はあまねく海外にも広がっている。ただ、この5000万という数字ばかりが先行し、内容に目が行っていないのではないかと、私は気になる。サッと来てサッと帰る日帰り旅行。これでは、日本人の「心の故郷」としての京都のすばらしさはわからない。京都は、長い間、日本の首都だった。それは江戸の権力に対して、1000年を超える歴史・伝統を背景とした権威・文化の首都であるということで京都人が誇りとしてきたし、それゆえに日本人の心の故郷となりえたのだ。日本人の憧れ、誰もが一目置くすごさが京都にはあった。これを、茶・華道の家元などさまざまな先輩が、営々と受け継いでこられ、われわれはその恩恵を受け、子どものころから京都を誇りに思う気持ちが醸成されてきた。こうした歴史、伝統をもった京都のすばらしさを、日本中、世界の人々に「心の故郷」として満喫していただきたい。私は、そんな京都のメーンストリートとして、烏丸通というもののあり方を今後も考え、さらに品格に満ち溢れた街並みを作り出すため、セカンドステップ、サードステップと歩みを進めていこうと思っている。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20100520101648224.html Thu, 20 May 2010 10:16:48 +0900
Vol.19 「温故知新 町家から京都を考える」小島冨佐江 http://www.coconkarasuma.com/column/20100226181928668.html
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小島冨佐江/特定非営利活動法人「京町家再生研究会」理事・事務局長
京都市伏見区生まれ。同志社大学卒業。1985年の結婚を機に、百足屋町の元呉服商の町家で暮らす。義父の相続にかかわり、都心部の町家の問題に直面。これをきっかけに、京町家再生研究会活動に参加、97年から事務局長となり、海外も含め、町家の再生活用、周知など精力的な活動を続けている。町家に対する理解を深めてもらうための広報を担当し、町家居住者と再生の専門家をつなぐコーディネーター役を務める。また、自宅を拠点に、「京町家歳時記」を主催している。
主な著書は、「京の町家 丁寧な暮らし」「京町家の春夏秋冬」など。
 京都市中京区にある私の家は、明治時代の建物で110年ほど経っており、京町家再生研究会の本部にもなっている。この家を、一昨年、半年くらいかけてなおした。正面も内部も、最初建てられたものから、大分変っていた。例えば、格子戸は便利だからとガラス戸に。2階の虫籠窓(むしこまど)も普通の窓になっていた。中も、モダンだと言うことだったのだろう、至るところ合板張りで、不思議な改修をされた家になっていた。屋根がさすがに古くなり、雨漏りも心配。それで一念発起、できるだけ元通りにと、改修に踏み切った。合板はすべてめくり、腐っていた柱は切り取って「根継ぎ」という伝統的な技術を使い、昔どおりになおしていった。

 今の日本の建築基準法では、コンクリートで基礎をつくり、柱と基礎がつながるようにしないといけないが、あえてそれはせず、石の上に柱がトンと乗っているだけ。何かの時は、建物だけがポンと離れるようにした。これが伝統的な木造建築、そのなおし方なのだ。研究会の本部となっている私の家は、地震の振動が大学のデータとして取り込まれるようになっているので、地震があった時は改修した家の揺れ方に変化が表われるのではないかと、分析の結果を待っているところだ。

 ところで、町家のはじまりは洛中洛外図にあるような、板葺き屋根に石を置き、表に店、奥に部屋、その横に通り庭という表から奥まで貫く土間があるというもので、とてもシンプル。敷地の形や大きさで、部屋の増減などいろいろ違いがあっても、この土間の存在は町家の特徴で、その上は吹き抜けになっている。この土間と吹き抜けが、木造の町家を水と火から守るすぐれた知恵である。しかし、昭和30~40年ころから、台所や子ども部屋を作るために、そこに天井、床を張り、町家を湿気や火の気から守ってきたこの知恵が失われてしまった。今度の工事でわかったのだが、私の家も中庭に床を張って事務所にしてしまっていたので、その下になった隅っこの柱は根元がすっかり腐ってなくなっていた。風通しが悪くなっていたのだろう。改修で中庭を復元したところ、すっかり風の通りが変わり、家の中は、風の通りが良くなり夏の暑さもしのいでいる。冬の寒いのは変わらないが、昔どおりの建て方が自然であったかということだろう。

 私は、結婚して伏見からこの家にやってきて、その時、両親がとてもこの家を大事にしてきたことを知った。祖父がこの家を譲り受けた時「この家をあずからせてもらいます」と言ったことが、家族に語りつがれている。私は母からそのことを聞いた。だから、私もその想いを大切に暮らしている。家族の思いがつまった家を、私の勝手で潰すことはできないと思っているし、同じ思いを持っている方々はたくさんいらっしゃる。しかし、バブル期のころ、住んでいるだけなのに、家が街中にあるというだけで、ぼう大な相続税がかかり手放さざるを得ないということが私の周りでもたくさん起こった。私が町家再生に関わりを始めた原点は、この理不尽な相続税を何とかしたいという思いだった。そのために、町家というものをきちんと理解してほしいと京町家再生研究会の活動に加わってきた。15年ほどして、やっと景観法の中で相続税が考慮されることになり、一定の成果は上がってきている。次は建築基準法の番である。これを変えないと、伝統的な日本の家は、すべてだめになると思う。

 昨今、着物、お茶、お花、日本舞踊など、多くの伝統的なものの継承が難しくなってきている。実は、その足元にあるのが町家である。畳に座る日本の住居の住まい方と伝統文化は深くかかわっている。それは、地域とのつながりにも大きくかかわっている。その町家が揺らいで、どうして伝統芸能や伝統産業が残っていけるだろう。町家一軒の問題が、地域も町すらなくなることにつながっていくのだ。

 京町家は今、ブームの感がある。そんなことに惑わされず、映画の書割のような町家でない、ほんものの町家を残し、新しい町家を建てられるよう一生懸命活動していかなければならない。そう、心している。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20100226181928668.html Tue, 26 Feb 2010 18:19:28 +0900
Vol. 18 「“無心”という、心のあり方」小笠原敬承斎 http://www.coconkarasuma.com/column/20100201172455523.html
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小笠原敬承斎/小笠原流礼法宗家
室町時代「日本武士の定式」として確立され、代々「伝書」で継承されてきた小笠原流礼法。武士の存在しなくなった明治、大正、昭和、そして今日の平成の時代でも脈々と受け継がれ、また、小笠原礼法を学ぶため入門する人たちも跡を絶たない。同氏は先代宗家 小笠原惣領家第三十二世 小笠原忠統の実姉(村雲御所瑞龍寺十二世門跡、小笠原日英尼公)の真孫にあたる。聖心女子学院において初等科より高等科まで学ぶ。聖心女子専門学校卒業後、英国留学。1994年 小笠原流礼法副宗家に就任。1996年 宗家に就任。
主な著書は、「おそれいります」「美しいふるまい」「美人の教科書」「美人の<和>しぐさ」など。
 「礼法」というと「作法」という言葉が先行し、「堅苦しい」あるいは「古臭い」というイメージがありはしないだろうか。「礼法」とはただ、周りの人とコミュニケーションを円滑にするためのきわめて単純で日常的な手段のことである。私自身、学生時代は自分の意見をはっきりと伝えられない性分で、それでは相手に自分の気持ちが伝わらない、と何度思ったことであろう。言いたいことを、相手に失礼にならないように伝えるにはどうしたらいいか。言うべきことを相手に不快感を与えずに伝える方法、そのために「礼」を欠かすことはできない。形式にとらわれるようなものではなく、「心のあり方」さらに言えば「相手を大切に思う心」が「礼法」にとって重要なことである。

 現代において、社会、学校、まして家庭においてですら、この「相手を大切に思う心」を身につける機会が欠落していると思う。例えば交通渋滞が激しく皆が急いでいて、歩道では赤信号でも走って渡る人がいる。その人たちは “ごめんなさい”と頭を下げることもせず、われ先へとわたることに懸命で人にぶつかってもそのまま通り過ぎる。そのような自分優先で、周囲への気遣いに欠けた行動の事例は数限りなくある。これではどう考えても、社会人としての基本的なコミュニケーション能力が身についているとは思えない。また、先生と児童あるいは生徒の関係も、仲良くしさえすればいいという風潮も目立つ。やはり「親しき仲にも礼儀あり」というように、先生や年上の人には正しい敬語を用い、敬う心を表す必要があると思う。これらは当然のことであるのだが「相手のことを思いやる心」「心から他人に接する意識」が今、希薄になっているのを感じる。

 以前80代の方に「戦前は、立派な家屋に住む子どもでなくても、玄関ではきちんと靴をそろえ、あいさつができるように躾けられていたものだ」という話を聞いた事がある。最近では、20代から40代の門弟が増えているのだが、子どものしつけ方に対する疑問を持って入門する者も少なくない。。第二次大戦前には日本人に当前のこととして存在していたしきたりや規範、社会生活を営むための方法が急速に失われ、60年を経た今だからこそ、それを取りもどしたいと「礼法」に興味を持つきっかけがあるのかもしれない。

 小笠原流礼法の指導は、主に室町時代に編纂されてきた「伝書」に基づいて行われている。我々が立ち返る原点である。礼法では「無心」の大切さ、すなわち邪念も妄念もなく我勝ちにならない、自己の抑制によって、他者と好ましい人間関係を築くための手法が記されている。また室町時代に記された「小笠原礼書七冊」では日常や戦での心得、手紙やお酒に関する作法など、あらゆる事柄についてまとめられているのだが、そこには「時宜(じぎ)によるべし」と多く書かれている。形だけではなく、時・場所・状況に応じた自然な行動をするようにという意味が含まれている。すなわち常に相手のことを慮り、TPOの的確な判断のもとに行動せよというものである。こうしたことは一朝一夕になし得ないこと。「礼法」とは単に形式化されたものではなく、反復して訓練しなければ習得しえない。しかし、身につくとおのずと自然で品格のある立ち居振る舞いや言葉遣いが表れて来るもの、身も心も美しく変化する。

 「身も心も美しくなる」という言葉は、私にとって京都という場所とも重なる。今は亡き祖母との幼い頃の思い出が多いから、ということもあるかもしれないが特別で大切な地だ。好きな寺院などを周ると気持がゆったりとする。そして身も心も新鮮になる感覚が体内に満ち溢れてくるのが自分でわかる。京都という地が持つ、懐の深さや静謐な雰囲気は、「礼法」における「無心」と通じる部分があるのかもしれない。
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小笠原流 上巳の節供床飾 [撮影:鈴木直人]
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20100201172455523.html Sun, 03 Feb 2010 14:25:00 +0900
Vol. 17 「京都の都市格を高めよう」柏原 康夫 http://www.coconkarasuma.com/column/20091216173400969.html
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柏原 康夫/京都銀行 取締役頭取
1939年生まれ、兵庫県出身。滋賀大学経済学部卒。1963年に京都銀行に入行、営業企画部長、営業開発部長、取締役人事部長、副頭取を経て1998年より現職に。
現在、社団法人 京都銀行協会会長、京都商工会議所副会頭、社団法人 京都府観光連盟会長、社団法人 京都市観光協会会長、公益社団法人 京都モデルフォレスト協会理事長なども兼任している。
 ―ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。

よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまるためしなし―

 鴨長明が著した「方丈記」の冒頭にて『移ろう世の儚さ』や『諸行無常』を詠んだ一節。企業経営においてもそうだが、予測できない様々な事が次々と起こり変遷していく世の中において、築き上げたものを存続させることは相当に難しい。地域文化においても同様で、「伝統文化」と呼ぶに至るまで高めていくことは、並大抵なことではなしえないことだ。
 世界に誇れる伝統文化を持つ都市“千年の都”京都の素晴らしさには、私自身とても感心させられる。「山紫水明の地」と呼ぶにふさわしい自然や歴史建造物は、もちろん魅力を構成する要素のひとつであり、素晴らしい観光資源である。しかし、さらに付け加えたいのは学術面でのレベルの高さだ。京都には大学が多く、優秀な研究者も数多く輩出している。都市をあげて「知」に重きを置いているからこそ、京都の文化は守られているのだと思う。京都に来る修学旅行生は多いが、その中で大学に訪れる学校は少ない。大学の素晴らしさ、「知」の素晴らしさを、若い時に肌で感じて欲しいと考えている。このように様々な面から京都を知り、楽しむことの蓄積によって、また大人になって改めて訪れた時に京文化の深さを感じ、京都をさらに愛していただけるのではないだろうか。
 また、さらにアピールしたい京都の魅力は、「歴史」「自然」「学術」など、あらゆる面でこれほどレベルの高い文化が人々の生活に根付いていることだ。つまり、日常の暮らしそのものによって高い文化レベルを維持できるということであり、表層的でない本当の魅力があるということ。「京都に来れば、何かがある」常にそう思わせることができる場所なのだ。
 しかし一方で、現代都市としての京都のレベルも高めなければならない。伝統都市という面に加え、現在における京都の「都市格」の素晴らしさをアピールすることも大切なことだ。その鍵は烏丸通が握っているのではないだろうか。京都の活き活きとしたビジネスのシンボルとなりえる場所であるからだ。京都らしく「都市格」を高めるためには、自然とビジネスを調和させることが重要になると思う。道路に植樹をするなど、様々な方法があるはずだ。また、四条烏丸の交差点付近にある「COCON KARASUMA」には烏丸通をより活性化していただきたいと思っている。そのためには「COCONに行けば良い物が揃っている」「COCONのお店はレベルが高い」と、さらにお客様に思っていただくことが重要で「ビル格」を高めていく事が必要だ。今後のCOCON KARASUMAにとても期待している。
「地元密着」。西京極スタジアムにて、京都サンガF.C.を応援する柏原頭取
「地元密着」。西京極スタジアムにて、京都サンガF.C.を応援する柏原頭取
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20091216173400969.html Fri, 18 Dec 2009 00:00:00 +0900
Vol. 16「ゆるやかに流れる時間」和紗 http://www.coconkarasuma.com/column/20091120123224945.html
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和紗/シンガーソングライター
1989年(平成元年)京都市生まれ。幼少期よりドラムをプレイする日本人の父と長唄や三味線を演ずる母の影響で、歌や音楽に親しむ。2006年より作詞・作曲活動とバンド活動を始める。2007年にソニーミュージックに応募したデモテープが本選に進めず埋もれていた箱の中から見出され、中島美嘉やCHEMISTRYなどの楽曲を手がけた川口大輔氏の目に留まり、音楽的交流や共作がスタート。2008年には島村楽器主催のオーディション「HOTLINE2008」で全国2500組の中でグランプリを獲得した。インディーズ時代はストリートライブで多くの人の足を止める“トラフィック・ストッパー”として名を馳せる。2009年7月1日、10代最後の日に先行配信楽曲「アイタクテ」でメジャーデビューを果たす。11月18日には同曲を新たに歌い、アレンジした「アイタクテ ~winter tears~」を配信した。
 京都は私にとって、とても恋しく愛しい場所だ。今年(2009年)の9月にCOCON烏丸からも程近い烏丸御池の新風館で1000人が集まってくれたライブがあったのだが、お客さんやスタッフの皆さんと共に作り出された心地良い空気の中、自分の原点はこの地にあるのだと改めて感じられた。
 私が歌手を目指したのは高校1年生のときだった。友達から「歌手を目指すのであれば、とりあえず行ってみたら?」と紹介され、京都市内のコミュニティセンターに通うようになった。まだ歌手を目指したばかりの私だったが、センターの方は気軽にスタジオを貸してくださり、楽器まで教えていただいた。同じ夢を目指す友達との出逢いも増え、通うごとに歌や音楽への想いは強くなり、本気で歌手になろうと考えるようになった。まさに「歌手としての私を生み、育ててくれた」のが、市内のコミュニティーセンターだったのだ。当時お世話になったセンターの方は私にとっての特別な「恩師」と呼ぶべき存在で、オーディション(島村楽器主催)のときには育ててくださった恩返しとして、優勝という結果を“努力と感謝の結晶”として是非プレゼントしたかった。結果を報告した際に「ありがとう」と答えていただいたときは、言葉にできない感動、そして改めて感謝してもし尽くせない気持ちになった。
 歌や音楽は、人と人との温かい“つながり”だと思う。もともと人前で歌うのが好きであったが、ライブなどで自分の歌でお客さんが涙を流している姿などを見ると、ただ「自分の歌を聴いてほしい」という気持ちだけで歌があるわけではない、と思うようになっていった。私と聴いてくれる人がつながっていて音楽が成り立っていると思うのだ。歌詞やメロディを作るときも、身近な友達の未来や恋に対する気持ちを自分の気持ちや経験と照らし合わせていることがよくある。それは、私と友達がつながっているからこそ生まれてくるものだ。これからも、つながっている人とのつながる想いによって、日々私も歌も影響され、変わっていくのだと思う。
また歌や音楽は、“魔法”のようなものでもあると思う。聴く人を様々な別世界へ連れていってくれる、とても不思議なもの。私の歌手としての理想は、お客さんが歌を聴いている間だけでも日常や時間をフッと忘れ、聴いた後にほんの少しでも何かに踏み出すきっかけとなり、溢れる気持ちを自然にすっきりとさせるきっかけとなる存在になることだ。
今年、メジャーデビューしてから色々な場所を訪れるようになった。そこで初めて、京都という場所は時間の流れが他の場所と違うように感じられた。ゆったりと、ゆるやかに時間が流れている。歌詞を作るときなど集中したいときは、落ち着いた環境の方が良い。家の近くのカフェに行ったり、烏丸通沿いのお店に行ったりしている。COCON烏丸は、大人な雰囲気があり、しっとりと落ち着ける場所だと感じていた。これまで大勢で騒いで遊ぶというよりも、映画や食事など友達2、3人で来ることが多かった。これからは1人でも、また来たいと思う。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20091120123224945.html Fri, 20 Nov 2009 12:32:24 +0900
Vol. 15「京都は、毎日がプレゼント」ウィスット・ポンニミット http://www.coconkarasuma.com/column/20091021115248003.html
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ウィスット・ポンニミット(通称:タムくん)/マンガ家、アーティスト
1976年タイ生まれ。「タム」はニックネーム。タイの東京芸大と呼ばれるシラパコーン大学デコラティブ・アート学部卒。1988年マンガ家デビュー。京都精華大学マンガ学部の研究生としての留学経験もある。日本では雑誌『IKKI』『Bigissue』『H』やweb『レンザブロー』で連載中。よしもとばなな著『なんくるない』の表紙イラストや,細野晴臣トリビュートアルバム『STRANGESONG BOOK-Tribute to Haruomi Hosono 2』におけるジャケットイラスト・DVD映像を担当するなど、いま最も注目を集めるマンガ家/アーティストのひとり。
10月26日に京都国際マンガミュージアムにて、親交の深い谷川俊太郎氏とのコラボレーション・イベント「詩とアニメ」を開催。またCOCON烏丸内でもshin-biにて10月30日から11月29日まで新作映像展示「LR展」を開催している。
 京都は私にとって多くの縁がある場所だ。日本語学校も、その学校の修学旅行も、またマンガ学科の研究生として通っていた大学も、京都。人生で初めて訪れた展覧会も(四条)河原町付近だった。京都は日本に来る前に雑誌で見ていたイメージと一緒で、とても感動したのを覚えている。
 今、京都からイメージされるのは「自然」や「平和」。川や木をはじめ、自然の大きなパワーを感じる。建物は写真のようで美しく、食べ物にも深さがある。人はその住んでいる場所と同じ、そこの食べ物と同じ、建物のデザインも同じだと思うが、京都の人の印象も土地柄そのままで、優しくてデリケートだ。そんな魅力的な京都に居ることはとても有り難く、毎日がプレゼントであるように思う。
 また、京都は自然・心・建物のバランスがドラマティックにとられていて“感じることを忘れてしまいそうになる”自分にとって、大切な場所でもある。(京都精華大学が運営する)「shin-bi」が入っているCOCON烏丸には来る機会も多いが、自然の音がする1階カフェのあたりのスペース(アトリウム)は広くて気持ち良い。なんだか落ち着く雰囲気があり、この場所(施設)にも京都ならではの良さを感じる。
 京都精華大学にはマンガ学科の研究生として通っていた。教授の部屋の本棚には、本だけではなくマンガが多く並んでいたのには驚いたし、嬉しかった。「マンガの国に来た」とワクワクしたのを覚えている。私は小学生の頃から日本のマンガを読んでいた。仲のよい友達と日本の好きなマンガをまねしてキャラクターを勝手に作り、ストーリーを考え、見せ合ったりしていた。たとえば“筋肉ムキムキのキャラクターがサッカーをやる”ような。遊び感覚だったけれど、それだけ日本のマンガに夢中になっていたのだと思う。
 再びマンガの世界に入ったのは大学生の時。タイの美術大学ではインテリアを勉強していたのだが、教授に怒られる事が多くてアートに対する自分自身への自信も無くなっていた時期があった。しかし勉強とは別に、その頃に自分が思っていたことを日記のようにマンガで描いた。誰かに見せるためと言うよりは、自分で描き、それらを読みたいだけだったと思う。思っていることを自由に描けて楽しかった。描いているうちに自然に、自分で本のようなものを作った。たまたま友達に見せたら「すごく面白い」と言われ、嬉しかった。
 それをきっかけにいろんな人に見せていたら、たまたまカルチャー雑誌に連載しているマンガが急に間に合わないことがあり、私のマンガを載せていただけることになった。初めて私のマンガが雑誌に掲載されたのがその時だ。「面白い」って言ってくれる人が増え、雑誌で私のマンガが連載されるようになった。当時は、今のように多くの人に読んでもらえるとはまったく思っていなかったので、今みなさんが真剣に私のマンガを読んでくれることがとても嬉しい。
 時々マンガを描きながら、自分でドキドキしたり、泣きそうになったりする。「この話を見せたら『面白い』と言われそうだなと思う瞬間はとても幸せである。また、自分が楽しいと思うマンガで生活できることの喜びは何事にも変え難い。自分にとってマンガとは?それは「楽しさ」と「幸せ」だ。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20091021115248003.html Wed, 21 Oct 2009 11:52:48 +0900
Vol. 14 「落ち着いてプレーできる場所」柳沢敦 http://www.coconkarasuma.com/column/20090901144015674.html
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柳沢敦/プロサッカー選手 京都サンガF.C. フォワード
1977年5月27日、富山県生まれ。小学校1年生のときに、サッカーを始める。富山第一高時代には1993、95年の全国高校選手権に出場し、活躍。3年連続で高校総体にも出場した。
1996年に鹿島アントラーズに入団。同年8月にJリーグ初出場を果たした。2003年6月からイタリアセリエAのサンプドリア、04年6月から同リーグF.C.メッシーナに在籍。2006年鹿島アントラーズに復帰した後、08年には京都サンガF.C.に移籍。同季に日本人最多得点である14点をマーク。オフ・ザ・ボールの動きに定評があり、高い技術とスピードは日本随一。
背番号13。
 鹿島アントラーズから京都サンガF.C.に移籍する時、何の不安も無かった。移籍のきっかけになったのは加藤久監督や秋田豊コーチから声をかけていただいたこと。サッカーを続けてきた中でとても信頼できる二人からの誘いだったので、安心してサッカーに集中できると考えた。
 フロント、監督、コーチそしてチームメイトとの「信頼関係」というのは選手にとって非常に大切なことだ。信頼されているということは精神的な支えのようなもので、自分にとって「落ち着き」をもたらしてくれる。チームメイトを活かすための広い視野、相手ディフェンダーとの緻密なかけひき、パスやシュートの正確性etc…。これらは冷静で落ち着いているからこそ、プレーとして表現できる。信頼の分だけ結果を出さなければならないというプレッシャーもあるが、それ以上に良い方向に影響するものだと思っている。サンガというチームは信頼関係が強く、全員が「共に戦っている」というチーム、ファミリーのようなチームであると感じている。サンガに移籍できたことは、とても幸せなことだったと思う。
 京都に引っ越すことについても、ネガティブな要素は無かった。自分は富山出身なので、両親や地元の友人達が「京都は近いから、これまで以上にスタジアムに応援に行ける」と喜んでくれたのはとても嬉しかった。今、妻と共に住んで約1年半になる。どこに何があるかが解ってきて愛着を感じるようになり、少しずつ京都に身体が馴染んできた気がするが、同時に京都の奥深さも感じている。雑誌やエリアマップなどでは紹介されなくとも魅力的な場所がたくさんある。また山・河・緑がどこにいても見渡せ、いつも自然を感じることができる。魅力に満ち、心を穏やかに落ち着かせてくれる京都は、地域全体がスピリチュアル・スポットであるように感じる。
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 COCON烏丸は、今回のイベント(8月9日(日)のトークショー&サイン会)の開催会場となったが、京都に住み始めて間もない頃からよく遊びに来ていた。上品でお洒落な印象があり、レストラン・ショップ・映画館が揃い、興味深いものが多いので気に入っている。今も休日にはたまに立ち寄っている場所だ。先日、加藤久監督と「老香港酒家京都」で一緒に食事をする機会があり「選手集めてまた来よう」という話になった。チームメイトとまた遊びに来られる日を、今から楽しみにしている。
 京都サンガF.C.は、歴史を大切にする京都という地域に本拠地を置いている。これからサンガは「サッカーの歴史」をこの地に刻み、根付かせ、京都の人にもっと愛していただけるようにしなければならないと思っている。そのためには自分自身含め、選手が魅力的なプレーをファンやサポーターに見せ、チーム自体も良い結果を残して盛り上げていかなければならない。ひとりでも多くの方にスタジアムへ足を運んでいただき、サッカーの魅力、サンガの魅力を直に感じていただけるよう、これからも頑張っていきたい。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20090901144015674.html Wed, 02 Sep 2009 00:00:00 +0900
Vol. 13 「世界に誇れる、マンガと京都の文化」竹宮惠子 http://www.coconkarasuma.com/column/20090805130048515.html
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竹宮惠子/マンガ家・京都精華大学マンガ学部長
1950年徳島県徳島市生まれ。17歳のとき、集英社「マーガレット」の新人賞に佳作入選、デビューを果たす。同じ頃「COM」の月例新人賞を受賞。徳島大学在学中、小学館「週刊少女コミック」に『森の子トール』を連載開始。
代表作には『地球へ…』『風と木の詩』『イズァローン伝説』などがあり、1980年には『地球へ…』が劇場版アニメ化される。2000年4月より京都精華大学芸術学部(現・マンガ学部) マンガ学科の専任教授に就任。2008年には学部長に就任。2000年秋より毎年、京都・東京にて原画展示の個展を開催している。
また、大学での研究として「原画’」を発表。2003年より各作家さんに広く呼びかけ「原画’展」を毎夏、企画開催。貴重な原画の保存・公開に務めている。
 私が京都に来たのは今から約10年前、牧野圭一先生(京都精華大学マンガ学部前学部長)に声をかけていただいたことがきっかけである。私の作品にファッションブランド・エルメスの約160年にわたる歴史をマンガ化した「エルメスの道」があるのだが、同書を見て「自分の主張するメッセージを描くだけでなく、他者の物語を上手く伝えることのできるマンガ家は、きっと教えるのに適したタイプの人間」と感じていただけたとのことだった。ストーリーマンガを教えるコースが京都精華大にできた際には是非来て欲しい、と言っていただいた。私は小学生のころから教えることが好きで、自分の知っていることを人に伝えたいという衝動が強く、グループ学習などが大好きだった。だが、さすがにマンガは教えることは出来まいと思っていた。それが今こうしてマンガを教える場所ができたことは思いがけなくも夢が叶ったというものだ。
 京都で教えている、ということについても嬉しさを感じている。とても居心地が良い場所だ。雅な雰囲気や言葉遣いの柔らかさが似ているからなのか、生まれ故郷の徳島とどこか通じているところがあるように感じる。また京都という地域は街の中に河が通り、すぐ近くには里山がある。自然を身体で感じられる場所にいるということは、心の中にある原始的なものが呼び起こされ、非常に幸せなことである。このような場所こそ子供たちにとって、本来の人間教育に適しているのだ思う。私は子供の頃、流れる川を眺めているだけで様々な好奇心が沸いたものだ。「中州の形はいつも変わっている」「鷺には色々な種類がある」etc…いろいろなことに想いを馳せる事が楽しかった。京都に住む子供たちは幸せだ、と心から思う。
 とはいえ、私には今も様々な好奇心が詰まっている。いったん興味をもったら、いつまでも興味を持ち続け、例えば宇宙科学について様々な視点からいつのまにか深く調べるようになる。すると、ふと生活との結びつきが見えてくる。自分の知識がストーリー化される。そうなると伝えずにはいられない。描かずにはいられない。そして「自分が気づいたこと」を伝えなければと思う。マンガという媒体はドキュメンタリーと違い、極端な設定でストーリーをリアルに描くことができる。そして極端な設定の中でこそ、真理を見せることができると思う。読者も事実じゃない、とわかっているから楽しめる。そして真理を読み込もうとしてくれるのだと思う。
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 日本はストーリーマンガの歴史が深く、今やとても日本人にとって身近な存在となった。そして豊かな情報がぎっしりと詰まっている日本の素晴らしいマンガは世界に発信され、ヨーロッパやアメリカなど外国の方も愛してくれるようになっている。ここ3、4年で日本のひとつの文化として定着してきたように感じる。非常に喜ばしいことだと思う。
 マンガと京都の魅力は「アナログ感」があるという点で通じている。マンガは人の手で描かれた肉感的な部分があり、京都という場所は伝統・歴史を重んじて「残す」ことを大切にしている。京都国際マンガミュージアムも昭和4年建造の小学校校舎の佇まいを残しつつ、新しくアレンジして作られた。COCON烏丸も古くからのビルを再生して作られたとのこと。緑色のファサードが目立っていてとても見つけやすく、先生方との待ち合わせ場所として使いそのまま地下で一緒に食事を楽しむことが時折あるのだが、こうした「アナログ感」ただよう施設だからこそ、ひときわ存在感を放っていたのかも知れない。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20090805130048515.html Wed, 05 Aug 2009 13:00:48 +0900
Vol. 12 「心を震わせる出逢い、心を和ませる京都」奥野史子 http://www.coconkarasuma.com/column/20090703190753495.html
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奥野史子/バルセロナ五輪 シンクロナイズドスイミング・銅メダリスト
1972年京都市生まれ。同志社大学大学院修了。シンクロナイズドスイミング選手として1992年 バルセロナ五輪で銅メダル、1994年 世界水泳選手権ローマ大会では日本人ソロ初の銀メダルを獲得した。1995年に現役を引退。2000年より2002年12月まではシルクドソレイユに所属。ラスベガスで最高峰の「O」(オー)に出演を果たした。
その後スポーツコメンテーターとしての活動の他、京都市教育委員会委員、文科省中央教育審議会の委員なども務めている。
2002年に朝原宣治氏(北京五輪陸上短距離銅メダリスト)と結婚。現在、二児の母。
 私がシンクロナイズドスイミングと出逢ったのは小学生低学年の時だった。姉二人の影響で始めて「京都踏水会」で習っていたのだが、当時は日本でそれほど人気がなかった。というよりも、認知すらされていない頃だ。しかし、一人の女性との出逢いによって私はシンクロナイズドスイミングに入れ込むことになる。その女性は、初めてシンクロが正式種目となったロサンゼルス五輪の金メダリスト、トレーシー・ルイツ。彼女は1週間京都に滞在してコーチをしてくださったのだが、彼女の泳ぎを見た瞬間、桁違いの魅力に“心が震える”想いをした。「本物」を見た素晴らしさでシンクロの虜となり、世界を目指す心が芽生えたのを、今も覚えている。私は「どれだけ素晴らしい出逢いが増やせるか」が人生の醍醐味だと思っているが、その一歩が彼女だったのではないだろうか。
 小学校高学年になると、その後長い付き合いとなる井村雅代コーチと出逢った。的を射たコーチングはまるで魔法のようで、それまで絶対にできないと思っていたようなことが、ちょっとしたアドバイスでできるようになったのには驚かされた。また彼女は妥協を絶対に許さない厳しい先生でもあった。先生と出逢ってからはとにかく四六時中シンクロのことだけ。それ以外のことを考える余裕も体力も残っていなかった。「泳ぐ、食べる、寝る」。私の青春時代の全てがシンクロだった。しかし先生に育てていただいたことで、幸せな青春時代を送ることができた、と思う。時を経たからこそ思えるのかもしれないが、「要らないことを考えないことで、健全な精神が作られ、核となる自分が作られること」、「優しく振舞うより、厳しく育てることの方が大変であり、大切だということ」、「ぶつかることで人と人との信頼感が強くなっていくこと」教育に必要な要素が、多く詰まっていたことに気づく。母として子を育て、また京都教育委員会委員を務めさせていただいている現在、井村先生の「教えることの凄さ」を心から感じることができる。
 オリンピックに出たのは19歳だった。バルセロナで銅メダルを獲得したのだが、背負うものの多さと重さに対して、とことん戦った期間であった。ロサンゼルスから獲り続けてきたメダルを、途切れさせてはいけない重圧。日本を代表している、候補選手から選ばれているからこそ、失敗できないプレッシャー。絶対にメダルを逃せない、と必死だった。負けず嫌いな性格が幸いしたのかもしれないが、それらを乗り越えたバルセロナでの経験がその後何をするにも怯むことのない、自信のようなものを植えつけてくれたのだと思う。
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 私は人と出逢い、そして挑戦することによって“心を震わせる”経験をいくつも重ねることができた。だからこそこれからも何事も楽しみ、心を震わせて、生きていきたいと思う。また、私は朝原宣治の「妻」であり、そして二児の「母」でもあり、家族と共に生きて感動を共有している。自分はとても幸せ者だと感じている。京都という住処も、幸せを形作るひとつのピースだ。京都人のDNAなのか、自分の子供は自分の生まれた場所で育てたいという気持ちがあって、東京から京都に戻ってきた。何より京都は居るだけで気持ちがほっこりとする。
 COCON烏丸にもたまに遊びに来ている。大人な雰囲気で、落ち着いた気持ちでショッピンクできるのが良いと思う。大人も子供も、家族みんなが楽しめる場所になればよいと、この先も楽しみにしている。
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【メディア情報】
MBSラジオ「上泉雄一のええなぁ!」火曜レギュラー。
讀賣テレビ「ウェークアップ!ぷらす」「ミヤネ屋」、NHK「おしゃれ工房」「産地直送たべもの一直線」、NHKラジオ「関西土曜ほっとタイム」等レギュラーコメンテーターとして出演中(不定期)。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20090703190753495.html Fri, 03 Jul 2009 19:07:53 +0900
Vol. 11 「京野菜で、世界平和を」棚橋俊夫 http://www.coconkarasuma.com/column/20090515152330825.html
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棚橋俊夫/是食キュリナリーインスティテュート
1960年、熊本県生まれ。筑波大学で農業経済学を専攻。「哲学は机の上ではなく生活の中にある」ことを学び、料理の世界で実践することを志す。27歳から3年間、滋賀県大津市の禅寺「月心寺」の村瀬明道尼のもとで修行。1992年、表参道に精進料理の店「月心居」を開く。著書に「野菜は天才・SHŌJIN」(文化出版局)、「野菜の力 精進の時代」(河出書房新社)がある。これまで「和樂」や「AERA」をはじめとする雑誌、The New York Times(米国)、The Sunday Times(英国)、The Japan Times、The Financial Times、Telegraph Magazine、朝日新聞等に記事が掲載される。2007年12月、信念を全うすべく、15年をもって「月心居」閉店。
2008年2月、「是食(ぜくう)キュリナリーインスティテュート」を立ち上げ、「21世紀は野菜の時代」と信じ、精進料理をとおして、野菜の素晴らしさや心身共に豊かな生活を提案するため、国内外で意欲的な活動を続けている。2009年4月より京都造形芸術大学にて「食藝プログラム」の教鞭をとる。

 五感すべてで楽しめる料理や食の世界。それは瞬間で姿が消えるが、いつまでも印象に残る、刹那的ドラマでもある。「人と人」の一期一会は「人と素材」にも通じ、命をつないでくれる食材に感謝の気持が湧く。

 私は肉、魚もいただくが、何よりも野菜を好む。大げさに聞こえるかもしれないが、野菜や果物は人類にとって、神、仏と同じ奇蹟の賜物と信じている。植物は水、空気、お日さんで野菜や果物を作るが、我々は「トマトひとつ、よう作れない」のである。

 我々ができないことをやってのける植物は、さらに苦を受けながらも黙って喜びを与え続ける。春は芽のもの、夏秋には実のもの、冬には根のもの、さらに一年を通して葉のものと、全身全霊で飽きさせず、絶やさず我々の命をつないでくれる。それこそ、最も現実的で最も身近で尊い、偶像ではない生の神、仏ではないだろうか。簡単に言えば植物なくしては人間も動物も生きてはいけないのである。真の神、仏は我々の命と一体であり、今、息できるのも彼らのおかげである。

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 木にふれたり、新緑が目に映ったり、精神的にもどれほど癒されているかわからない。ガーデニングや畑作業で土いじりするとストレスが解消される。植物に触れ、土に戯れることが心地よいのは我々の遺伝子の中にしっかり記憶されているからであろう。心や体が病んでいる人が急増している。植物に向き合い、その恩恵をたっぷり頂くことが回復への大きな力になるはずだ。

 京都は幸いにも緑の山々に囲まれ、清らかな水が流れ、気が澄んでいる。この豊かな土地で育まれた野菜たちは古来、お百姓さんの努力と人々の高いセンスによって高品質のものを作り上げてきた。
 暑い時期には「とうがらし」がよく出回る。一般的には辛いだけの赤いとうがらしを連想するが、京都では緑色の大ぶりの甘とうがらし。焼いたり、揚げたり、煮たり、ビールをぐっとやれば、口中が爽やかになる。万願寺、伏見、田中、山科、鷹ヶ峰。これらはみな、とうがらしの種類であり、産地の地名から名付けられている。形、大きさ、時期、味が異なり、その土地ならではの産物となっている。狭い京都の中で、これほどの種類のとうがらしが区別して食されることに驚かされる。


 最近では名ばかりの京野菜が全国に出回っているが、それだけ古くから京都には野菜文化が発達した証でもある。まさに京ブランド。京都の人たちに愛され、生活の中に根付いた野菜文化。例えば、夏越の祓、6月30日に小豆の入った三角形の餅、水無月を頂き、冬至には南京を食べ柚子風呂に入る。今でも季節に敏感で、食いしん坊も手伝って伝統を守り、若い人たちに受け継がれる様子はうらやましく、かつ京都の奥深さや重さを感じる。

 また、京都を訪れる度に感じるのは「上質で上品な雰囲気漂う、京都のオリジナリティ」が、常にあるということだ。古きよきものを生かしつつイノベーションしているから、そこには変わらぬ価値がある。私はそこに「お洒落」を感じる。例えばCOCON KARASUMAもそのひとつだが、烏丸通の建造物やお店には、古い建物を生かしながら再設計しているものが多い。烏丸通は元々ビジネスの中心ではあったが、最近では伝統を生かしながら洗練された要素も加わり、京都からの文化発信の中心にもなっているのではないだろうか。

 さて今、私は京都造形芸術大学で「食藝」の授業を行っている。「食」についてイマジネーションを働かせ、クリエーションをもたらす授業だ。頭でなく体で感じ、身についていったものが文化である。授業では座学だけでなく様々なことを体験しながら五感で学んでもらう、まさに、おいしい授業を目指している。是非、若い人たちにも、食がもたらす無限の可能性を感じてもらいたい。

 60兆個の細胞から成る人間が、世界全体で約70億人いる。我々にはその細胞ひとつひとつが喜ぶ食をつくる使命があると考えている。私は周りにいる皆様と共に、時にはご指導いただきながら、食が平和をもたらす日を、そしてその発信基地が作れる日を、いつも夢見ている。京都にはその地盤とヒントがたくさんある。



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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20090515152330825.html Fri, 15 May 2009 15:23:30 +0900
Vol. 10 「心を揺さぶる、京都と能の魅力」金剛 育子 http://www.coconkarasuma.com/column/20090406152457343.html
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金剛育子/能楽金剛流宗家夫人
東京都生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。1977年、能楽金剛流宗家 金剛永謹氏と結婚。
1988年から2004年まで、京都府教育委員会委員を務めた。現在、(財)金剛能楽堂財団評議員、(財)京都市景観まちづくりセンター理事など、様々な役職を持つ。
2003年に京都御所西向かいに移転、新築された金剛能楽堂の運営などを通じて、後方より能楽の普及に尽力。

 京都には人の心を癒し、揺り動かし、感動させる魅力がいたるところにある。喜びの時、悲しみの時、その時々に人の心をその大きな懐で深く包み込み、人は自らの心と静かに向き合うことが出来る。

 しかし、それらの魅力は一朝一夕には成し得ないもの。先人がひたすら守り続け、かつ新たなものを創造し続けてきた想いの集積によってつくりあげられてきた。古典芸能である能にも同じことがいえるが、伝統や一つの“道”は、ひとたび絶たれたら無くなってしまう。永い歴史の中で、頑なまでに守られ続け、さらにその時代ごとの新しい息吹を取り入れてきたからこそ、京都は他には無い輝きを持つ。
 百三十年余りの歳月を経た能舞台を移築して、金剛能楽堂が京都御所の西向かいに移転してから早や五年。能楽堂の門の前に立つと、烏丸通りを隔てて御苑の緑が目に眩しい。早春には梅が可憐な蕾を膨らませ、やがて春爛漫の桜の季節を迎える。近衛邸跡の枝垂れ桜の見事さ。秋には陽の光を浴びて黄金色に輝く銀杏の大木や、微妙なグラデーションを醸し出す紅葉の数々など、四季折々の御苑の美しさは思わず息を飲むほどだ。先日も京都御所の屋根の上にかかる満月に足を止めてしばし眺め入った。夜空に黒くくっきりと浮かび上がる屋根との取り合わせが一幅の絵を思わせ、まるで平安時代にタイムスリップしたかのようで、かの昔、宮廷の人々もこのような光景を眺めていたのであろうと想像は膨らんでいく。歴史的景観と自然美の調和こそが、古来より今日まで日本人の美意識をかきたてて止まない京都ならではの魅力なのだろう。
 一方で、伝統に培われた魅力と同様に、時代と共に変化する魅力もある。烏丸通りはその象徴だと思う。最近通りの雰囲気が変わってきたとよく耳にする。古い建造物を現代に合ったものに改造して再生させるなど、古(いにしえ)のものと今のものがほどよく融合し、若い人のみならず大人も楽しめるようになった。COCON KARASUMAはその先駆けだったように思う。入口の唐長文様「天平大雲」は斬新なデザインで、未来への可能性を感じさせる。私も折にふれて立ち寄る事が多く、ショッピングからレストランでの食事まで家族でCOCON KARASUMAを満喫している。
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 時代が移り変わり、どんなに科学が発達しても人の心は古今東西変わらない。愛する喜びや、嫉妬や執心の苦悩、離別の悲しみなどどうすることもできない人類の永遠のテーマでもある。能は人の心を六百年以上にわたり綿々と描きつづけてきた。能を観る時、無意識のうちに人は自己の魂と対話している。いぶし銀のような魅力を秘めた京都の地でこそ能を観てほしいと願っている。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/20090406152457343.html Fri, 10 Apr 2009 10:30:00 +0900
Vol. 9 「京都に息づく家業のカタチ」千田 愛子 http://www.coconkarasuma.com/column/column09.html
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千田愛子/KIRA KARACHO
唐長11代目当主である千田堅吉の長女。夫であるトトアキヒコとともに、唐長を世界と後世に伝えるための活動をしている。当主自らが唐長のDNAとしての色感覚を一番受け継いでいると認める感性を活かし、現代の暮らしに合う唐紙の在り方やココン烏丸内ショップのKIRA KARACHOブランドのプロデュースを手がけている。
夢は、夫と共に、京都に唐長美術館をつくること。その準備段階として、唐長サルヤマサロンを夫婦でオープンし企画展を開催したり、他者とさまざまなコラボレーションを取り組んだりしている。今後は、夫婦で開催する展覧会なども京都内外で手がけつつ、唐長の美術性を伝え、唐長美術館への道のりを歩もうとしている。その道のりについて記している夫トトアキヒコのブログ: kira karacho

京都という土地は、私の五感を刺激する。
歴史に裏打ちされ洗練を重ね、今なお生き続ける文化の数々が身の回りにたくさんあることと、自然に囲まれたこの京都が大好きだ。
私は、文様と色の世界に身をおいて仕事をしていることもあり、道行く先々でさまざまな色が目にはいってくる。見渡せばいつでも自然が目に入ってくるし、歩いていても車に乗っていても、愛する自然の色が目に飛び込んでくる。山の木々が色づいてきたなぁと思いながら、空の色合いとのコントラストを楽しむ…そういう日常の風景が唐紙をつくるときに、色彩感覚として呼び覚まされるのである。
唐紙の美しさを感じる心は、日常のささやかな幸せを感じる心と相通じるものがあるのではないだろうかと思っている。
山も川も街も、見上げればひとつの空の世界のもと調和されている。
絶え間なく変化し続ける空…全てを包み込むその広大さに人々は守られているのだ。
唐長文様「天平大雲」に覆われたココン烏丸のファサードには、そんな願いもこめられている。

修学院で私が10年以上つづけてきた千田愛子の文様と色の世界を唐紙のカードや小物で伝えてきたものを、足の便の良い四条烏丸の場へ移した唐長の試みが2004年のこと。
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烏丸通から見た唐長文様「天平大雲」を用いたココン烏丸のファサード
現在、カードの他いろいろなギフト商品を展開しながら、唐長文化を伝えるための入口として役割を担っているのだが、この京都という土地とともに、私に大きな影響を与えてくれるのは公私ともパートナーである夫の存在が大きい。
彼の思想や感性の織りなす世界観は、私の世界観を大きく広げ可能性をもたらしてくれる。
私の唐紙づくりや発想にも影響を与え、とりわけ、精神性や詩的な感覚は、私にとって尊敬すべきところでもある。唐長においても、当主である父をのぞけば、別格とも言える感覚の持ち主であり、面白く、また、本人同士は決して認めないだろうが、娘の私から見て、どことなく父に似ているところが、なおさら面白いのだ。
近頃、そんな夫が、「星に願いを」という唐紙を額装したシリーズをつくりはじめた。昔、父から夫が譲り受けた作品で父独特の色使いと空気感を発しているものがある。
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夫はそれを家宝だと大事にしそれを毎日かかさず眺め続け、日々の中からいろんな父の言葉を拾い集め、ある日、機が熟したかのように、ふいに手がけはじめたものだ。実際のレクチャーを一度も受けることなどなかった夫のこの唐紙をはじめて見たときの驚きと感動を私は生涯忘れないだろう。
実際は、似て非なるものではあるが、父の存在がインスピレーションになっていることは事実であり、夫が手がけた唐紙が、彼の理想とする音なき音を醸し出す美しい心ある唐紙であることにも、まちがいない。
唐紙の美しさは、文様の世界観と物語、板木に潜む大切な先人たちの魂をうつしとってこそ、人に何かしら感動を与えるモノとして呼吸しはじめるのだ、と常日頃語っている夫は、400年連綿と続いてきた先人たちの魂と会話しつつ、現当主である父の背中を追いかけているのかもしれない…
こういう家業のカタチが、私にとっては、京都の象徴でもある。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column09.html Mon, 02 Mar 2009 13:00:00 +0900
Vol. 8 「古(いにしえ)と今、そして未来をつなぎたい」神谷 雅子 http://www.coconkarasuma.com/column/column08.html
京都シネマ代表 神谷雅子
神谷雅子/(株)如月社 代表取締役、京都シネマ代表、立命館大学産業社会学部教授
1980年 立命館大学文学部卒業、1990年 京都朝日シネマ支配人、2003年1月 惜しまれつつも閉館(閉館を惜しむ署名全国から7,000人以上寄せられる)。同年3月如月社を設立、2004年12月 京都シネマをCOCON烏丸に開業。2004年立命館大学産業社会学部講師、2008年同教授。2005年度京都府あけぼの賞受賞。著書に「映画館ほど素敵な商売はない」

 COCON KARASUMAの前身、旧丸紅ビル。1938年に建てられた繊維商社の本社ビル。幸いにも戦火を免れ、敗戦後連合軍占領下でGHQの京都本部が置かれたビル。その名残は、ビルの床や、趣のある階段にしっかりと残っている。
 2002年12月。まだリノベーション(再生)後の構想が固まっていなかった肌寒かったあの日。このビルに初めて足を踏み入れた日のことを鮮明に覚えている。電気は当然ない。薄暗い中、懐中電灯を頼りに地下一階から屋上まで、歩いて、見て回った。地下には理髪室があった。厨房の名残もあった。2階、3階には、畳が敷かれた展示スペースのコーナーもあった。四条烏丸という京都の真ん中に、これから新しく生まれ変わろうとするこんなビルがあったのだという驚き。そして、この場所に映画館をつくりたい。ここでなら、必ず成功させられる。何としても、ここで、という強い思い。あの日の思いが、今の京都シネマの原点だ。
 京都の新しいランドマークとしての施設を作る、という方針のもと、いくつかの構想があり、いくつものハードルを乗り越え、アート系の市民に支持される映画館への期待を寄せられて、2004年12月4日開業。お客様に「また再会できてうれしい」「開業してくれてありがとう」と声をかけられた。歴史にifはないが、「京都朝日シネマ」閉館が別の時期だったら、残念ながら「京都シネマ」は存在していない。そんなこともふと思う。
 縁、出会い、その絶妙のタイミング。チャンスの神様は前髪しかない、と言われるが、それが“前髪”かどうか、判断できるのは、じつは掴んだ後だ。4年が過ぎ、あの時「ありがとう」と言われた言葉にふさわしい映画館であり続けられているかどうか、いつも自問自答している。
京都朝日シネマ
京都朝日シネマ
 京都は、110年前、日本で初めてシネマトグラフが試写実験された場所であり、今も、二つの撮影所を持ち、映画をつくり続けている映画都市だ。日本の、世界のあらゆる国の映画を上映するだけでなく、欲張りな企画をたくさんしてきた。学生映画の特集、関西で映画をつくり続けている人たちの作品上映、京都の音楽家とのコラボレーション、無声映画「瀧の白糸」(1937年)のオリジナル曲による演奏付き上映会、科学映画講座、映画づくりワークショップなどなど。ホワイエでは、映画関連商品以外にフェアトレード商品の販売も始めた。
 COCON KARASUMAの名前に込められた思い。「古今東西の様々な文化を横軸に、京都の歴史と伝統を縦軸に、人、文化がクロスする場所 烏丸」。
 これからも、その場所にふさわしい映画館であり続けたい。
「闇の子供たち」阪本順治監督舞台挨拶
「闇の子供たち」での阪本順治監督舞台挨拶
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column08.html Sat, 15 Nov 2008 17:00:00 +0900
Vol. 7 「創造のインスピレーションを与える町」 ジャン=ポール・オリヴィエ http://www.coconkarasuma.com/column/column07.html
ジャン=ポール・オリヴィエ
Jean-Paul OLLIVIER (ジャン=ポール・オリヴィエ)/関西日仏学館 館長、関西日仏交流会館 ヴィラ九条山 館長、京都フランス音楽アカデミー 実行委員長
1955年仏・ノルマンディー生まれ。79年フランス・経済財務省入省後、84年以降はフランス文化・通信省在職。国立パリ・オペラ座制作部長、国立ジョルジュ・ポンピドゥー芸術文化センター財務・法務部長、パリ国立近代美術館-産業創造センター取締役を歴任。ミラノ・フランス文化・言語・協力センター館長を経て、06年夏から現職。フランス文化・通信省(第一級アタシェ)、フランス外務省より出向中。フランス文化芸術勲章 オフィシエ章受勲。

2年前、関西日仏学館の館長に就任して初めて京都を訪れた。正直言って、最初はがっかりした。京都は町全体が美しい庭でできているとばかり思っていたのに、目に入るのはあまり美しいとは言い難い建物や道路、そして電線! それまで私が見た京都の写真にはそのようなものは一切写っていなかった。
ところが、時間が経つにつれ、この町では美しいものが背後に隠れていることに気がついた。京都には長い歴史と精神性があり、生活を美しく快適にする職人技へのこだわりがある。古い建物や風景や庭に美のインスピレーションが詰まっている。演劇やコンサートなどを楽しむには東京やパリの方が便利だが、私自身は京都での穏やかで静かな暮らしに最もハーモニーを感じる。賀茂川のあたりを散歩したり、円通寺の庭を見たり、行くたびにまるで違う印象を受ける銀閣寺を訪ねるのが好きだ。京都には一方で大きなハイテク企業や優秀な大学があり、必ずしも博物館化した町ではないところもよい。伝統的な美意識と共に、“未来”がある。
関西日仏学館
2003年にリニューアルした「関西日仏学館」
この京都の地にフランスからアーティストや研究者を招き、創作活動にふさわしい環境を提供しようと設立されたのが山科区にある関西日仏交流会館「ヴィラ九条山」だ。元々80年前に当時の駐日フランス大使ポール・クローデルが関西日仏学館を設立した場所なのだが、フランス語を普及する本拠地としては不便だということで、1936年に日仏学館は京大の近くへと移転し、長い間放置され廃墟となっていた。81年に取り壊し、アーティストのためのヴィラとして1992年に開館以来、音楽・造形美術・映像・文学など多彩な分野のアーティストや研究者たちが半年間滞在し、日本に関連した作品の創作に従事している。滞在中に日本人との交流を得て、帰国後再び京都に戻ってくる例も多い。
2008年10月17~26日に、COCON烏丸で日仏交流150周年および京都・パリ友情盟約締結50周年記念のイベントが開催され、フランスに注目が集まることをうれしく思う。デザインや職人の技、ラグジュアリーといったテーマは日仏共に伝統があり、ヴィラ九条山に滞在するアーティストの作品がハイクオリティな生活文化を提案するCOCON烏丸で紹介されるのはとても意義深い。フランスのアーティストが様々な人たちと触れ合うことにより、今後、日本とフランスが共同で作品を創るような新たな企画が生まれることを期待したい。
日仏交流150周年
「日仏交流150周年」のロゴ
右のQRコードを携帯で読み込むと「日仏交流150周年記念サイト」にアクセスできます。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column07.html Fri, 17 Oct 2008 10:00:00 +0900
Vol. 6 「洛中・洛外・京都伏見」 増田 泉彦 http://www.coconkarasuma.com/column/column06.html
月の桂 増田泉彦
増田 泉彦/「月の桂」醸造元 (株)増田德兵衞商店 代表取締役社長
昭和30年、京都・伏見生まれ。大学卒業後、東京日本橋の酒類問屋に勤務。昭和56年、増田德兵衞商店入社、常務取締役就任。平成3年から現職。
平成4年から伏見の特定農家と契約し自ら田植え・稲刈りをして無農薬有機栽培米「祝」を育て「平安京」や「祝米・純米吟醸にごり酒」を発売。近年「抱腹絶倒」「吃驚仰天」などユニークな製品も発売している。
日本酒造組合中央会 理事・海外戦略委員長
伏見酒造組合 副理事長

大学を出て東京の酒問屋に5年ほど勤め、28歳で京都に戻ると「京都伝統産業青年会」からお誘いがあった。お酒も伝統産業の一環ですよと言われて、ひょこっと顔を出したのがツボにはまった。伝統産業といってもお酒とはあまり縁のない、織り、染め、焼物、木工、石材といった団体ばかりだった。もっと枠を広げていこうということになって、漬物とか、京菓子とか、京都の伝統野菜とか、そういう人たちを巻き込んでいった。帰ってきたばかりの私には、伝統産業に関わる方々にお会いできたのは、知ってるようで知らない私にとって京都の脈々とした人脈と繋がるきっかけになった。父の時代からのつながりも大切に、また新しい視点での広がりや、清酒を組み合わせての展開、後にパリでの茂山狂言の皆さんとの講演に酒は付き物とわざわざラベルまで創っていただいたご縁も、京都を中心としたワールドワイドな大きなつながりである。

酒造りでは水と米が欠かせない。伏見の銘水は言うまでもないが、極力京都の米と水で醸したいと、伏見で田植えをさせてもらって足掛け19年、今では御所の4倍の広さ約20ヘクタールにもなった。田んぼには全部井戸を掘って地下水で育てている。もちろん無農薬で。頑張り屋の農家と出会い、人も米も相性がいいのではとの思いからだが、はじめてみるとアグリカルチャーだけに文化であると、奥の深さに未だに毎年毎年が初心者で在ると、謙虚にお酒とお米の対話の絡みの妙なるを実感している。
ただ醸して造るだけじゃどこの蔵も同じである、何となくあそこのおやじがいるから買ってやろうとか、やはり酒は季節性と個性が一番と思っている。
この妙なこだわりは学生時代に遡る。フランスのワイン造りの連中から「畦道が1本違えばブドウの味が違う」と聞かされて、「くそっ、こいつらに負けたらいかん」と思った。ブルゴーニュの歴史はたかだか220年(フランス革命で一度なくなっている)、うちは350年続いているから、負けたらいかんと思った。おかげさまで今ではブルゴーニュやボルドーの連中が見学に来られたりするまでになった。
月の桂 酒蔵正面
京都で造って京都の人に飲んでもらうこだわりは京都人気質だろうか?(でも意外と京の人は京都ものはほめてくれない・・・・笑)

海外に日本酒を広めに行くと、商売の生業が京都にあってよかった、とつくづく感じる。全国に酒造メーカーが1,600社あるけれど、文化の味を表現するのに「KYOTO」の一言で通じるから。知名度もさることながら、音の響きが心地よく感じるのかも知れない。私は伏見の清酒のPRも兼ねて、グローバルに展開するにはこの「KYOTO」の音感と知名度が重要と思った。それで「伏見」の頭に「京都」を付けて「京都・伏見」でキャンペーンするように取り組んでいる。
ずっと伏見で暮らしていたので、市内に行くときは「ちょっと京都に行ってきます」と言って京都に行った。同じ京都でもこんな言い方が好きだった。四条河原町から烏丸界隈のいろんなものに出会えるワクワクするような感覚は今も変わらない。洛中・洛外で言えば、伏見や山科は洛外になるから、一種の憧れみたいなものだったようだ。
今年で4年目になるが、αステーションと新風館と組んで「α-Sake Bar」なるものをさせてもらっている。この場所は特に、若い女性に受けていて、日本酒の新しい出会いの場所として賑わいがある。烏丸通りは三条界隈が好みだが、残念に思うのはやはり、鉄筋でも古い建物が消えていくこと。木造とかレンガ造りとか、伝統的な造りの建屋が減っていくのは寂しい限りだ。まだまだ京都にしか出来ないことを、京都人の問題意識を益々研ぎ澄まし、COCONも温故知新の昔の名残をとどめていてくれればいいな、と洛外から洛中へ思いを馳せている。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column06.html Fri, 19 Sep 2008 17:15:00 +0900
Vol. 5 「日本一の四条烏丸」畑 正高 http://www.coconkarasuma.com/column/column05.html
松栄堂社長 畑正高氏
畑 正高/(株)松栄堂 代表取締役社長
昭和29年 京都生まれ。大学卒業後、香老舗 松栄堂に入社。平成10年、同社代表取締役社長に就任。
香文化普及発展のため国内外での講演・文化活動にも意欲的に取り組む。平成16年ボストン日本協会よりセーヤー賞を受賞。 環境省 かおり環境部会委員、同志社女子大学非常勤講師などの公職も務める。
著書に「香三才」(東京書籍)、関連書籍として「香千載」(光村推古書院)などがある。

 京都の金融街として親しまれている四条烏丸。京都の地図を広げると、市街地の中央に位置する十字交差点。金融街として活力のある日々を送ると同時に、商店街の入り口としても親しまれている。近くには、京の台所・錦市場や繊維問屋街で有名な室町も控え、この界隈の賑わいは京都の活力のバロメーターと言って過言では無い。
 日頃は実に煩雑なこの交差点が、一年に一度だけ空気を改め特別の朝を迎える。7月17日午前9時、あの祇園祭の山鉾巡行はこの交差点から出発する。平成20年のその朝は、歴史に残る快晴だった。東にまっすぐ伸びる四条通の彼方には、東山を背にして八坂神社のお社が遠望できる。日本一の朝日は、その社殿の上から、山鉾巡行を待つ人々の中に盛夏の陽射しを射し込んでいた。
 昨夜まで、数日間続く宵山に連日数十万人の人出があって、祭りの興奮は高潮している。しかし、この朝を迎えると人々のまなざしは一変して、街は静粛な緊張感を迎える。幸せなことに、私は満十歳の時からこのお祭りに縁を得て、四十数年間、毎年のようにこの清々しい朝を仲間とともに迎えてきた。
 私は、祭礼の先頭を行く長刀鉾の囃子方として笛を吹いている。子どものときに鉦方に参加して、24歳の時、笛方に転じた。わが囃子方は80名ほど。小学校の子供から70歳代の長老まで、日常の仕事などまったく無関係に一切の利害関係もなく、ただ祭囃子のためだけに毎年みんなが参集してくる。年齢の序列に対する意識にはとても厳しいけじめがあって、それが自然と各自の胸の中に責任感や誇りを育んでいる。長刀鉾の上にはおおよそ45人ほどのメンバーが乗り込む。他に稚児の関係が10数名。8畳ほどの空間は、蒸し風呂と化す。左右の欄縁が囃子方の席で、それぞれに9名ずつ半身を外へ乗り出すように腰を掛ける。その左側一番先頭は、笛方の中堅リーダーが務める席。私たちの吹く能管は両手を顔の右側に揃え、その分、少し左肩を覗くように姿勢を取る。先頭をゆく長刀鉾の左先頭に座し笛を構えると、目の前には静粛な都大路が広がり、山鉾を待ち望む群衆の熱い視線に圧倒される。
長刀鉾より「鉾の辻」を望む
長刀鉾より「鉾の辻」を望む
 四条烏丸の交差点で出発を待つ長刀鉾の後ろには、決められた順番に次々と山や鉾が集まってくる。四条室町の交差点は「鉾の辻」とも呼ばれ、東西南北の四方すべてに巨大な鉾が控えている。その鉾がズシリと動き出し、指定の位置に揃う頃には、数多くの山たちもその間に態勢を整える。長刀鉾の後ろの隙間からその絶景を望むのも、実に贅沢な瞬間だ。「ほらほら、鶏が出てきた!」などと、緊張のひと時を楽しんでいる。
 9時。「お囃子お願いします!」との声を聞いて、太鼓方が「ウン、ソーレ!」そして「テン・・・テン・・・」と気合いのこもった太鼓の響きを聞いた音頭取が「エンヤラヤー」と威勢の良い声を上げる。グラリッといよいよ長刀鉾が動き出した。
四条烏丸の緊張の朝、日本一の朝。この朝を迎えることが、私の幸せな節目となっている。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column05.html Tue, 19 Aug 2008 10:00:00 +0900
Vol. 4 「自然の移ろいに敏感な京都のDNA」 池坊由紀 http://www.coconkarasuma.com/column/column04.html
池坊由紀
池坊由紀/華道家元池坊次期家元
華道家元四十五世池坊専永の長女として生まれる。1989年11月に得度(法名:専好)し、華道家元次期四十六世に指名を受ける。次期家元として国内外でのいけばな作品の発表はもとより、日本画や彫刻など他の芸術分野とのコラボレーションなども展開。また、日本文化の振興や子どもの教育に関する委員会や対人地雷除去キャンペーンへの参加、大学での講義、全国各地での講演など、多彩な活動を行なっている。現在、池坊お茶の水学院長、日本いけばな芸術協会副会長を務める。平成15年度京都市芸術新人賞受賞。

 今、改めて与謝野晶子訳の『源氏物語』を読んでいる。なるほどと気づかされる自然の描写や、人の動きなど、千年経っても新しい発見がたくさんあり、やはりそういう変わらない魅力が、京都にはあるのだと思う。ほかの地域の皆さんが、「京都がいい」と言うのは、表面的な華やかさや楽しみというのではなく、人間の琴線に触れる本質的な部分、心を揺さぶる、あるいは心を癒すような、心の本質に関わるすべてのものを京都が兼ね備えているからではないか。心から、ああ、生きているのだなと実感できる場所が、京都なのだと思う。
 『源氏物語』に植物の記述が多く見られるように、京都は本当に自然との距離が近く、自然の移り変わりを実感できる都市であり、京都の人たちは季節感の演出に細やかな神経を使う。やはりそのことが、いけばなの発達・発展においても大きな影響を与えてきた。
 例えば、梅雨から夏の時期にかけてのいけばなには、いかにうっとうしさを追い払って涼しく見せるかという表現方法に卓越したものがある。紫陽花(あじさい)にしても寒色系の色を使い、白い縞模様の入った葉をあしらって涼やかな感じを見せる。さらに水盤のような広口の器を利用し、剣山を端に寄せて水を受けるようにする。単にクーラーで快適にするのではなく、身の回りにあるものを上手に活用して、五感で涼しさを演出するのが、京都人ならではのテクニック。安直ではない、一つの奥ゆかしい世界がそこにはある。
池坊由紀 源氏物語をlいける
池坊由紀作 立花新風体
花材/紅梅苔木・雪柳・若松・オクロレウカ・白玉椿・バンダ・フリージア・ゴムの木・玉しだ
花器/銅器・広口下蕪瓶
『世界の源氏物語』ランダムハウス講談社(2008年)/©撮影:神崎順一
 いけばなというのは、草木を観るというだけではなく、ほかの芸術や文化ともつながっていて、そこから多くのインスピレーションを得る。そういう意味では、日々いろいろな発見がある。COCON KARASUMAにある「京都シネマ」にもよく行くのだが、常にこだわりを持ってセレクトされた映画が上映されていて、そのシャープな感性に、「ああ、こういう見方もあるのか、表現の仕方もあるのか」と教えられ、次の作品に生かしたいと思うことが多い。私は烏丸通りを歩くのが好きで、朝によく散歩をするが、とても心が落ち着く。同じ通りでありながら、北へ行けば御所など緑いっぱいのエリアが広がり、南はビル群と、その対比がおもしろい。オフィス街でありながら、殺伐とした感じは全くなく、どこか温かい。COCON KARASUMAのほかにもすてきなお店や新しいレストランなどが増えていて、これからが楽しみな、可能性豊かな地域だと思う。

 京都の人たちは常に、人の心がどこにあって、どのようにして世の中が動いているのかということを、非常に敏感に察知して生きてきた。それはやはり京都のDNAではないかと思うことがある。それだけの研ぎ澄まされた感受性がベースにあったからこそ、新しい様式も生まれてきたし、京都の街も、池坊も、魅力を失わずに今に続いてきているのではないだろうか。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column04.html Thu, 03 Jul 2008 18:00:00 +0900
Vol. 3 「異国との対話、醸し出す時間」 鶴岡真弓 http://www.coconkarasuma.com/column/column03.html
鶴岡真弓
鶴岡真弓/美術史・ケルト芸術文化研究者・多摩美術大学教授
1952年生まれ。立命館大学教授を経て、現職。ケルト芸術文化、ユーロ=アジア世界の装飾・デザイン史の研究家。京都で開始した「異国の装飾」の交流史発掘を続行中で、黄金・唐紙・錦織・陶磁器など、伝統の装飾芸術を「世界性」の中に位置づける研究チームを率いている。
『京都異国遺産』(平凡社)、『黄金と生命』(講談社)、『ケルトの歴史』(河出書房新社)、『装飾する魂』(平凡社)など、著書多数。

 京都というのは、古代から現代に至るまで、自らとは異なるもの、異国的なものを取り入れる意欲と力を持った都だと感じている。美しいもの、質感や艶があるものを押し付けがましくなく、訪れた人が自然に発見できるような舞台としての雰囲気を、とても洗練された形で1200年以上にわたり保ってきていると思う。例えば、ゆっくり「香を聞く」ように、空気の流れを感じるように、誰もがそこにスーッと招き入れられるような、「共感」の時空が伝統として降り積もっている。

 「こもる」という言葉がある。お酒でも繭でも食材でも、醸成・熟成するためには、自然界が必要とする時間を与え「こもらせる」ことが必要だ。盆地である京都は、自然と人間との対話、ものと人間との対話、人間同士の対話に耳をすまし、掌(たなごころ)の上で温めるように丁寧に時間をかけて変化(へんげ)させてきた。今ここにあるものに満足せずに、自分の「外」にある、一見「異なるもの」と勇気を持って出会わせて、すばらしいものを創り上げてきた。そのプロセスには知恵と技法と熟成された心が詰まっている。
 「異なるもの」と出会う積極的な勇気と、そこで醸成させた成果としては、「祇園祭の美」がもっともわかりやすく、真髄だと思う。祇園祭は、山鉾の装飾にペルシャやインド、ヨーロッパなど異国の織物やデザイン・文様が使われていることから分かる通り、インターナショナルなアート・アンド・デザインの結び目であり、世界でも貴重な祭りだ。異なるものを出会わせて変化(へんげ)を楽しませ、みんなに感動を与えている。
函谷鉾 ベルギーのタペストリー「イサクに水を給するリベカ」
函谷鉾 ベルギーのタペストリー
「イサクに水を給するリベカ」

写真提供<財団法人 函谷鉾保存会>
 京都の伝統というと京都にしかないと考えがちだけれど、京都であること、日本であること、アジアであることは、異なる世界と積極的に交わるということ。京都はそれを連綿と続けてきたし、COCON烏丸も、まさしくそのコンセプトで造られたのだと思う。ビルのファサードに配されているのは、伝統的に京都で襖紙として使われてきた唐紙。古典文様のひとつである「天平大雲」の採用は、隈 研吾さんと京都の老舗唐長さんのコラボレーションによるものだが、「唐」は中国や韓国であり、和紙と「異国」の文様が交差している。もともとは、お寺や茶室、豪商の邸など限られたサロンの中でしか味わえなかったインテリアを、開かれた公共の場にデザインしたということは、とても象徴的だ。それはやはり、自分のアイデンティティーとともに、これからも、勇気を持って異なるものと接触していく世界性を培っていくのだという心意気を語っているのではないかと思われる。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column03.html Fri, 23 May 2008 10:00:00 +0900
Vol. 2 「今も昔も、大切な場所」 谷口キヨコ http://www.coconkarasuma.com/column/column02.html
谷口キヨコ
谷口キヨコ/タレント
兵庫県出身。現在は京都在住。“キヨピー”の愛称でおなじみの人気ディスクジョッキー。幅広い世代から支持を受け、ラジオのDJにとどまらず、テレビの司会、イベントのMCは関西を中心に活躍中。

 私は京都人ではない。京都には大学の4年間と、αステーションでDJをするようになって引っ越してきてもうすぐ10年になる。学生時代は完全に《北の方の子》で、大学もバイトも仲間で集まる場所も、北区にあった。
 河原町や木屋町(祇園は私には関係ない場所だった)を《まち》と呼び、そのまちに出るには相当の気合いと財力が必要だった。私はその辺の男子に負けないぐらいお金のない女子大生だったから。大学時代は市バスを駆使してどこにでも出掛けた。特に賀茂街道を通るバスがお気に入りだったが、御池通りまで来ると、《まちに来た!》という思いでうきうきしたこともよく覚えている。
御池通り
御池通り
 今も大好きな御池通り。空の広さを感じられるみちは、ただ行きすぎるだけではない、忙しい現実から少しだけ離れられる場所。みちを歩きながら、車に乗っていても信号待ちをしながら、空を仰ぎ見る気持ちにさせてくれる、みちだけど単なるみちじゃない、私にとっては落ち着ける場所だ。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column02.html Thu, 01 May 2008 11:00:00 +0900
Vol. 1 「COCON KARASUMAに流れる時間」 隈 研吾 http://www.coconkarasuma.com/column/column01.html
隈研吾
隈 研吾/建築家
1954年横浜生まれ。1979年東京大学建築学科大学院修了。コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2001年より慶應義塾大学理工学部教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞、同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2002年「那珂川町馬頭広重美術館」をはじめとする木の建築でフィンランドよりスピリット・オブ・ネイチャー 国際木の建築賞受賞。近作にサントリー美術館。著書に「負ける建築」(岩波書店)「新・建築入門」(ちくま新書)

「すごい床」との出会い。
 COCON KARASUMAの設計を依頼されて、1938年に建設された旧丸紅ビルの印象は今も鮮明である。
 「すごい床だ!」と感じた。オフィスビルだと聞いていたのに、寄木細工の木の床がそこにあった。それもペラペラの今時のフローリングではない。ずっしりと木の厚みがある、本物の寄木細工の床が懐中電灯で照らされてにぶく光っていた。
 僕は建築を設計する時、とりわけ床の材料を重要視する。壁や天井の材料よりも床の材料の方が何倍も重要である。なぜなら人間の身体は直に床にさわるからである。壁にはめったにさわらない。天井にはほとんどさわらない。しかし、床にさわらずにいる事は不可能である。身体は床の材料のやわらかさ、あたたかさ、ざらざらを直接足裏で感じる事ができる。壁や天井は視覚を媒介とする。しかし、床だけは視覚のようなまどろっこしいものを媒介とせずに、直接身体に訴えてくる。だから、建築デザインというのは要するに床のデザインなんだというくらいに僕は床を大事にしている。
1階玄関ホール
 この鈍く光る木は何だろうかとサンプルを送ってみたら、何と「イペ」だという答えがかえってきた。イペは南洋の木材で日本には生えていない。耐久性があり、雨、風にさらされても30年位は長持ちする。そんな木を南洋から輸入してオフィスの床全部を作ってしまうとは、いったいどんな時代だったのだろうか、いったいどんなクライアントだったのだろうか。
寄木フローリング
 僕の想像は、1938年の京都の上空から遠く南洋の海上に到りやがて熱帯雨林のじめじめと湿った地面の上に着地した。この床の上を歩いていると、その湿り気が足裏に伝わってきて今でもぞくっとする。
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情報工房 http://www.coconkarasuma.com/column/column01.html Thu, 1 Jan 1970 00:00:00 +0900