COCON KARASUMA:古今烏丸ウェブサイトのRSSフィード http://www.coconkarasuma.com/column/ COCON KARASUMA:古今烏丸ウェブサイトでは、各種最新情報をRSS配信しています。 ja copyrights©cocon karasuma all rights reserved. 2008-03-01T09:00:00+09:00 info@coconkarasuma.com webmaster@coconkarasuma.com http://www.coconkarasuma.com/ http://www.coconkarasuma.com/img/logo.gif Vol. 38「今まである京都のものをいかし現代的感性をプラスする」梶田真章 http://www.coconkarasuma.com/column/20111201185944669.html
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梶田真章(かじた・ しんしょう)/法然院第三十一代貫主
1956年、京都の金戒光明寺塔頭の常光院で生まれる。80年、大阪外国語大学ドイツ語科卒業。84年、法然院第三十一代貫主に就任。85年、境内の環境を生かして「法然院森の教室」を開き、93年には、境内に「共生き堂(ともいきどう)法然院森のセンター」を開設するなど、寺全体を社会活動、アーティストの発表の場やシンポジウムの会場として開放し、法話も数多く行う。著書に「法然院」「ありのまま-ていねいに暮らす、楽に生きる」。毎月26日に開く念仏と法話とアトラクションの「善気山念仏会」は1997年から続く。「私も語り続けています。ぜひご参加ください」と。午後3時から。

 子どものころは、生まれた黒谷のお寺の境内やすぐ近くの真如堂が遊び場でした。町内が寺の集まりですから、放課後になると寺の息子ばかりが学年を越えて集まり、一緒にソフトボールとかして遊んだのです。昭和30年代のことで、黒谷の山門にボールをぶつけたり、結構乱暴なことをしましたが、特におこられたりはしなかったですね。時代というか、今では考えられないことですね…(笑)。周りはお寺の子どもばかりでしたが、特にいろいろなお坊さんになるための修行をしたり、父(三十代貫主で哲学者の橋本峰雄氏)から寺の子としての心構えなどをうるさくいわれたことはなかったですね。ただ、自分の中では漠然と寺を継ぐんだな、という気持ちは小さな時からありました。
 哲学者としての父から薫陶を受けたという記憶は、あまりありません。それでも本はたくさんあったので、よく読みました。一浪した時にはフランス語の勉強を始めましたが、大阪外国語大学ではドイツ語を専攻しました。そのころに、法然院の貫主をしていた祖父が亡くなり、父が後を継いだので、私も大学に通いながら本格的にお寺の仕事を手伝うようになりました。朝の5時から勤行をして大学に行くというように、すっかり生活は変わりましたね。念仏をただ唱え、いろんな人と接することも多くなり、そういうことから仏教というものを学び、「お寺をあずかっていかなあかん」という気持ちも、自然にしっかりとしていったように思います。それと、大学でドイツのことを勉強してキリスト教文化に接し、キリスト教がいう、何事も「神の思し召し」というのではちょっとしんどい、と感じたのです。人間はそれぞれ一人ひとり背負っているものがある。この「業」をいう仏の教えの方が納得できると考えたことも、坊さんをやっていくうえで大きかった。
 ところで、法然院を継いだ父は、お寺を檀家にも観光客にも一般の人にも、それぞれに役割を果たす「共同体」にしようと考えました。いわば市民に開かれたお寺ですね。それで例えば桑原武夫さん、鶴見俊輔さん、多田道太郎さんら京都のそうそうたる学者さんといっしょに現代の風俗を研究する「現代風俗研究会」をお寺で開いたりしたのです。そんな画期的な試みをした父が59歳で亡くなり、私は27歳で寺を引き継ぐことになりました。私は、父の考えを継承しようと思いました。この流れ中で今日まで、自分なりにできることをやってきたつもりです。85年の「森の教室」から始まり、コンサートや展示会などさまざまなイベントを行い、また、法話も今では年間200回ほどにもなっています。さまざまな人が出会い、時代を語り、表現しあい、何より訪れるどなた様にも楽になっていただくことこそ僧侶の役割であり、どんな人ともつながりのある共に生きるお寺にしたいと考えているのです。
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 昨年は、「東日本大震災」、そして「福島原発事故」で日本は大変な犠牲を払うことになりました。ただ、少しいい方が難しいのですが、地震や津波は天災で、日本に住んでいる限り、ある意味でどこでも起こりうる。ずっと昔から日本人はそのたび、みんなで寄り添って悲しみを超え、災害を克服してきたのです。ところが原発事故は、違います。私をはじめ日本人全体に責任があると考えます。原発は絶対安全と、ありもしない「絶対」を信じ、さまざまな不安に目をつぶり目前の便利を選んだ結果の悲惨な現状なのではないか。今に生きる者すべてが「自業自得」と思うべきなのではないでしょうか。私たちは、実際に犠牲をはらった福島の人に謝りながら、これから長い復興へ、時間をかけて自分ができる責任をとっていかなければならないと考えます。まだ震災中なのです。
 天災のたびに、まさに痛感することなのですが、どのように生きようと、人は思いもかけない不幸に出合います。この「不条理」を受け入れるために必要な知恵として、宗教はある。仏教が、「葬式仏教」などといわれているようではだめで、僧侶として、これからも苦しんだり、悩んだりしている人の話を聞き、心の安らぎを取り戻せるよう「社会的な苦」の追究にも務め、仏法を語り続けなければいけないと深く思っています。
 また、あらゆる芸術は、心を見つめ直させます。私はお寺でさまざまなイベントを開催していますが、中でも現代アートに力を入れています。京都の伝統的空間と現代美術が出合えば、世界が注目するアートになると考えているのです。京都では、どこにでもあるような新しい箱モノなど意味がない。今まである京都のものを活かし、そこに現代的感性をプラスすれば、比類ないすばらしいものが現出できる。今年も法然院は、京都にあるそういう場としてあり続けたいと考えています。
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情報工房 2012-01-26T00:00:00+09:00
Vol. 37「時間的にリッチな京都、比類ない魅力」上田誠 http://www.coconkarasuma.com/column/20111125161413834.html
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上田誠(うえだ・まこと)/「ヨーロッパ企画」代表 劇作家・演出家
1979年京都市生まれ。98年、同志社大学工学部に入学し、演劇サークル「同志社小劇場」に所属、先輩2人とサークル内で演劇ユニット(後の「ヨーロッパ企画」)旗揚げ。2000年に、サークルから独立し、全公演の脚本、演出とスタッフを担当、公演を重ねる。活動は演劇にとどまらず、コントや放送、映画等々さまざまなパフォーマンスへと拡大、脚本は映画やテレビドラマに多数採用されている。主な脚本作品は「サマータイムマシーン・ブルース」「冬のユリゲラー」「芝浦ブラウザー」など。現在、KBS京都で「ヨーロッパ企画の暗い旅」というバラエティー番組を制作、放映中。12月31日には、KBSホールで9年目となる恒例のカウントダウンイベントを行う。「タイトルは《煩悩の数打っていこう》で、企画を108個やりますよ」と。

 小さな時からゲームとか、ものをつくることは好きでしたね。それも、友だちが来てくれるようにいろいろ工夫しました。一人っ子で両親が共働きだったせいでしょう。例えばおもちゃでも一人で遊ぶものより大勢で遊べるものを買ってもらうなどして、とにかくみんなを楽しませようと心がけていました。小学校に行ってからも、壁新聞をつくってみたり、豆本のようなものを配ったりしてひたすら人の関心を引くことをやりました。これは今もぼくの活動の底流に流れていると思います。中学では、音楽とテレビゲーム。まさにファミコン世代なのですが、少し下火になっていたMSXというパソコンを使って自分でゲームをたくさん作りました。ゲームづくりは高校時代も続き、専門誌に投稿するほどコンピューターゲームがほんとに好きで、地元の任天堂に入りたいなあと本気で思っていたんですよ。
 
 ところが、2年生の時、演劇というものに出会ったのです。ぼくがいろいろ創作しているのを知っていたクラスの文化委員が、文化祭にクラスで劇を出すから、脚本と演出をやってくれないかという。三谷幸喜さんの世界とか演劇を知らないわけではなかったのですが、脚本書くのは初めての経験。それではと「鳥がなく町」という20分の脚本を書いて、演出をしました。ゲーム的なお話なんですが、これが受けたんですね。しかも、コンピューターゲームと違い、多少の破綻があっても動いてくれる。もう、芝居が一番面白い! というわけで、すっかり演劇にはまってしまいました。「鳥がなく…」はぼくの処女作となり、残りの高校生活は芝居、芝居の日々となったのでした。
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撮影:清水俊洋
 大学は、プログラミングの勉強をと、工学部の知識工学科に入りましたが、何よりも演劇。演劇サークル「同志社小劇場」へ。そして、すぐにサークル内で先輩2人と「ヨーロッパ企画」を旗揚げしました。1998年です。第1回の公演で「ところで、君はUFOを見たか?」をやった時のこと。初日、観客は12、3人しかいなかったのに、最終日には何と100人も動員したのです。多分、勘違いですが、とにかく人が来た。おお、いけるやないかとなって、すっかり盛り上がり活動をつづけることに。

 でも、小劇場の中では「勝手なことやるな」など、多少の軋轢がでてきたので、2000年には、3人とも退団して「ヨーロッパ」を独立させたのです。幸い、活動は順調にいきました。02年には、吉本興業主催の「よしもとrise演劇祭」というのに出場して優勝、300万円の賞金を獲得したんです。これで、脚本家や演出家ならともかく劇団を主宰するのは…と難色を示していた両親を説得できました。確かに主宰するのは、劇団員の面倒をみるということでもあり大変で、ぼくだけが大学に残って、ついには中退までして劇団を続けていくことになってしまいました。劇団の活動は、放送や映画など演劇以外のジャンルにもどんどん拡大し、旗揚げ8年となった06年、劇団を会社化しました。マネジャーをおいて経営の方は任せ、ぼくは脚本や演出など制作に専念するという形にしたのです。
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撮影:有本真紀
 毒にも薬にもならないかもしれないが、小屋に入ってみたら必ず楽しめるというものをちゃんとやる、というのがぼくの芝居に対する考えです。とにかく面白いと思うことを、節操無くやり続けたい。芝居はプリミティブなもので、映画など他の表現手段に比べ制約がいっぱいある。しかし、発想に制約はなく、有名人(スター)がいないことなども、ほんとうの面白さには関係ないと思っています。まあ、例えていえば、東京なら人がいっぱい集まる有名な櫓(やぐら)がたくさんたっていて、下積みしながらいつかあの櫓にと考えるところでしょうが、ぼくらは違った。この京都で、どこかの原っぱに自分らで櫓を組んでしまい、そこでぼくらなりのしつらえをし、お客さんを呼べる体制を徐々に整えてきたといえばいいでしょうか。芝居は、その土地その土地でやればいいと思っているのです。東京の人は東京で.福岡で育った人は福岡でという具合に、多様であるべきです。

 ぼくは京都で生まれ育ったのですが、東京やアメリカが30歳とすると、京都は、どうも60歳くらいの感じがする。時々イベントで使うCOCON KARASUNAのビルは古いたたずまいと新しさが同居していて象徴的と思いますが、京都の街全体が実に時間的にリッチというか、練れ具合がすばらしいのです。ここなら、居住まい正しく年齢を重ねていける。たまらない魅力ですね。このことは、東京などに行って上演すると自ずとぼくらの作品の個性として際立ってくる。京都を離れることは考えません。ぼくらの芝居を生み出す工場は、京都になければならないと思っています。京都で作った作品を持って、全国へ世界へと出かけて行きたい。
]]> 情報工房 2011-12-07T00:00:00+09:00 Vol. 36「古くて常に新しい京都が好き」大江 広一郎 http://www.coconkarasuma.com/column/20111108103217609.html
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大江広一郎(おおえ・ひろいちろう)/べじたぶるぼーと
1979年、東京生まれ。学生時代休学し、国際交流を目的としたピースボートに参加、さまざまなボランティア活動など体験。東京農工大学を卒業後、約2年のサラリーマン生活を経て、農業の道へ。2010年から、亀岡市本梅で野菜の無農薬有機栽培とその宅配に取り組む。「食べてくれる人のために」をモットーに人間関係を大事にした農業をめざす。

 何となくいいなと思っていた関西に東京からやって来て、2010年から亀岡で無農薬の野菜栽培を始めました。その野菜は流通を通さず、京都市と亀岡市を中心に消費者に直接届けています。畑は2反(約2千㎡)からスタートし、昨年秋から3反に増えました。ゴボウやレンコン以外はほぼ何でも作り、ハーブも加え100種類ほどになるでしょうか。去年の夏は2軒だった宅配先は、65軒にも拡大し、毎週曜日を決めて、5種類千円で届けているのです。
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 東京の港区三田というところで生まれ育った私は、子どものころ、とても農業を身近に考えるような環境にはありませんでした。中学校は軟式テニス、そして大学まで、硬式テニスに明け暮れていました。その大学は東京農工大学という農業と関わりの深い学校なのですが、私は工学部の方で、実はシステムエンジニアをめざし、そうですね、TVゲームをつくるような仕事がしたいと考えていたのでした。もっとも、先にいったように部活のテニスの方が熱心だったんです。それで、3年生の秋に部活を引退すると、一気に目的がなくなったというか、このまま卒業して就職したり大学院にいったりしていいのかな。何かもっと、自分がしないといけないことがあるかもしれない。

 そんな時たまたま出会ったのが「ピースボート」の活動だったのです。それまでは、あまり社会のことに関心があるほうではなかったのですが、いろいろな人からパレスチナやほかの紛争地の現実を聞いたりして、新聞などの報道とナマの情報とはだいぶ違うなと思い、もっと知りたいと休学して船に乗り、3カ月半かけて20カ国を回りました。この体験で、このまま大学出ても意味ないんじゃないかとの思いがますます強くなり、ボランティアや環境NGOに参加したりして、大学に7年間も籍をおくことになってしましました。その間中、どうしたら社会に役立てるのかと考えていたわけですが、やはりきちんと勤めてみないと社会のことはわからないと、もう26歳になっていましたが、就活をやったのです。
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 こうして入った会社は、そう大きくない印刷広告会社でしたが、与えられた営業の仕事はひたすら忙しかったですねえ。担当したのは折り込みチラシ。クライアントの原稿をもらいに行き、それを印刷用のデータにして確認し、直接工場まで持って行ったり。夜中の12時にそんなことをやるのもしょっちゅう。まともに晩ご飯が食べられないとか、きついことも多かったけれど学ぶことも多く、楽しいこともありました。でも、これを長年続けていくことは自分には難しいと思い、2年ちょっと経った頃に辞めさせてもらいました。
 会社にいる時もずっと頭にあったのが、休学していたころの農業体験でした。2泊3日でやった田んぼの草取りとかです。その時、聞いた安全でおいしいものを食べてほしい、という農家の人の切実な言葉も印象に残っています。よし、農業! やってみよう。もちろん、農業経験は農作業を手伝ったぐらいしかないので、本格的に教わらなければならない。それで知り合いのつてを頼って最初、茨城県の農家、続いて岐阜で有機農業や手作業の方法などを勉強させてもらいました。そのままそこで農業を始めるという道もありましたが、ぼくには分からないなりに一つ考えがありました。都市から離れていては流通に頼るしかない。何となく、直接消費者に届ける農業がしたいなと思いはじめていたのです。
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 そうこうするうち、運命的な出会いがありました。大阪の能勢で有機農業をしている尾崎零さんに会ったのです。農家の人の話をきくというイベントで、尾崎さんは有機栽培はもちろん、自分でそれを届けるという取り組みをしているという。これこそ、自分がしたい農業だ。早速尾崎さんに、1年間の研修をお願いし弟子入りしたのです。尾崎さんの教え方はすごくわかりやすかったですね。それが尾崎さんの教え方のようですが、私が栽培しやすい方法で指導してくれました。どんな人にでも始めやすい方法で指導されるんです。こうして、この研修を受けるかたわら亀岡で畑を借りることができ、発酵鶏糞だけを使う栽培法で、事業を始めることができたのです。とにかくこれからも「安全な野菜を近くで作って、近くに届ける」というやり方をしていきたいですね。当面はこの規模を維持し、宅配も冬場で80軒程度に抑えて、一人で顔の見える農業をやっていこうと思っています。
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 宅配でくる京都の街ですが、学生時代から年に3-4回は来るほど好きでしたね。実は、私はパンが大好きで、旅行するたび、全国のパン屋さんを訪ねています。その中で、京都のパン屋さんは日本一のレベルなんです。小さな店が、自分のところでものすごく個性的なパンを焼いている。もちろんチェーン店ではないですよ。京都といえば和菓子を思い浮かべるように、とても古風なイメージがありますが、どっこいパンという新しいものもとてもすばらしい。このパンの存在が象徴するように、伝統と新しさがきれいに併存している-これがどこの街にもない京都の魅力です。東京で育っただけに、このバランスはすごいと思います。

 COCON KARASUMAで行われた「ココンマルシェ」(今年4-9月)に出店して、たびたびこのビルにも来るようになりましたが、精華大学の店に来ていて昔から知っていました。古いような新しいようなたたずまい、テナントのお店もバラエティーに富みすてきです。こうしたビルのある烏丸界隈には町家もあるし、これから、いろんな個性的なお店や施設を集め、伝統と新しいものがバランス良く融合している京都の良さのシンボルとなるよう、自分も協力していけたらいいですね。
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吉田 裕子(よしだ・ひろこ)/吉田屋料理店女将
京都市生まれ。京都市立芸術大学大学院美術研究科修了後、ジュエリーデザイナーとして活動。同時に、子ども時代から日常だった自宅の賄いや学生時代のホテルのアルバイトなどで鍛えた料理の腕を生かし、1998年ごろから、美術館やお寺などでのパーティーへケータリングを開始。フランス人経営のレストランとワイン専門店で修業を積み、2000年、倉庫になっていた町家を改装し「吉田屋料理店」をオープン、独特のアレンジを加えた料理、多くの人が出会う空間として全国的な人気を博している。現在、「50歳になってからできる仕事」をめざし、新しい事業を準備中。著書に「京都 吉田屋料理店」。

 京都市立芸術大学の美術科で学んだのですが、確かに小さい時から、図画、工作は好きでした。でも、絵は、兄の方が上手でしたね。写生大会でよく賞を取っていましたし、そのせいか、私は親にあまり絵では認めてもらえなかったように記憶しています。ただ、そのうち漠然とファッションデザイナーの仕事がしたいなあ、と思うようになり、高校時代は、もう「ファッション命」。京都府立洛北高校は伝統的に私服がOKでしたから、洋服を自分でアレンジして着ていくなど、おしゃれに身をやつしました。洋服代を稼ぐためにアルバイトをした、といっていいほどだったんですよ。

 高校卒業後、大阪の会社に一旦勤め、数カ月して辞めました。ファッションデザイナーになろうとは思っていませんでしたが、きちんと美術の勉強がしたい、芸術系の大学へ行こうと思ったのです。入学した京都芸大では、美術科の彫刻へと進みました。彫刻には、現代美術ですごく有名な先生が集まっていたのです。思った通り、彫刻以外に、写真、マルチメディアなど多岐にわたる幅の広い体験ができたすばらしい年月でした。しかも、私はここで、思いもかけない新しい自分の才能を発見したのです。何とそれは、家で普通につくっていた「料理」でした。大学の研究室にはキッチンがあり、制作やディスカッションの合間に、みんなでよく料理を作りました。私は、両親が共働きで、子どもの時からしょっちゅう「料理係」をしていたんです。大学に入るまでは、自分の料理を誰かと比較することなどなかったのですが、ここで初めて他の人と比べることになり、「あれ、私のようにみんなはできないのか」と。驚きの発見でしたね。

 私は、学生時代からジュエリーデザインの仕事を始めていましたが、そこそこお金になり、大学院を出てからも就職せずフリーでジュエリーデザイナーを続けました。デザイナーの仕事をしながら、結構社交的な私は、自分の家に人を招いたり、よその家でのパーティーの時には料理を作ったり持っていったりなど、ケータリングのようなことをして楽しんでいました。こういうことがちっとも苦痛じゃないんですね。そのころ、そんな私を知るあるアート系の人から、京都市美術館で開かれる現代美術展のパーティーに、ケータリングをしてもらえないかと相談されたのです。200人規模のパーティーで予算は50万円。2カ月前だったので、ワインの準備にも十分時間がかけられ、学生時代、ホテルのバンケットのアルバイトで、どんな料理がよくでるか大体知っていたこともあり、我流ながらこのパーティーはずいぶんいい評価をもらいました。それから、毎月1回くらいケータリングの仕事で声がかかるようになり、ジュエリーデザインと二足のわらじの日々が始まったのでした。

 ケータリングの料理は、和洋中、パーティーを開く人によってさまざまです。スペイン、イタリア、アラビア料理と、外国へも行き、食べ歩きをして自分なりのアレンジを加え、いろいろな料理を出せるようになっていきました。すると、料理がますます面白くなり、とうとう、自分で店を持ちたいという気持ちになってしまったのです。

 「お酒と美味しい料理」をツールに、人がつながり、何かが生まれる「場」にしたい。これがお店のコンセプトで、私はそこの「管理人」というわけです。そのためには、ちゃんとしたフランス料理とワインの勉強をしなければいけないなと思いました。それで早速、行動に。こういう時、京都は便利です。料理は、フランス人オーナーの店がちょうどスタッフを募集していたのでそこに雇ってもらい、週2回、料理だけでなくサービスや経理の勉強までしました。また、ワインの勉強は、昔から知っているワイン専門店で働き、高級ワインのテースティングなど思う存分させてもらいました。両方とも一年通いましたが、特にワインはきちんとノートに取り、自分の店には何を置くか見当を付けることができたのです。お店は、このワイン専門店のオーナーの好意で空き家になっていた倉庫を借りることができ、改装してオープンしました。いわゆる町家ですが、ちょっとわかりにくいところにあって、家(うち)かお店かわからないものに―という私の思いにぴったりでした。こうして、世界中の料理を日本人に合うように作って出したい。見たことのないもの、変わったものを食べさせてあげたい。こんな思いで日々お店を切り盛りしてきたのです。

 お店は、10年ちょっと過ぎましたが、つくづく京都だからこんなことができたんだ、と思っています。若くして店を持てたのも、日本、世界の各地から人が集まって来てくれるのも、京都だからこそです。もともと京都で生れ育ち、有名なお寺や桂離宮など名所旧跡を特にどうとも思わなかったのですが、大人になってみるとその良さがわかって来ました。なるほど、人がいっぱい来るのもあたりまえだなと。とにかく、行くたびに新しい発見があるんですからね。ただ、注文もあります。もっと外国人が観光地的でないお店に簡単に入れたり、日常の暮らしがしやすい工夫が必要ではないかな。これができれば、さらに世界中から人を呼べると思います。それから、このCOCONKARASUMAが象徴するように、烏丸界隈は新しいお店がたくさんでき、にぎわいが出てきたことはすばらしいのですが、京都の街中で、あまりお金がない若者でも面白い店が出せるようにできないものでしょうか。表通りは無理でも、裏通りの町家とかうまく活用して、小さくても、どこにもない個性的なお店がたくさんできるようになればいいなあ、と。それから、例えば現代アート専門の展示場など「今の日本」を発信する仕掛けもほしいですね。京都がますます深く、すばらしい街になると思います。
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情報工房 2011-10-17T10:00:00+09:00
Vol. 34「京都:伝統と新しさのバランスの妙」吉川 左紀子 http://www.coconkarasuma.com/column/column34.html
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吉川左紀子(よしかわ・さきこ)/京都大学こころの未来研究センター長
北海道生まれ。77年、京都大学教育学部教育心理学科卒業、82年、同大学院教育学研究科博士課程認定退学。89年、追手門学院大学文学部助教授、同年、英国ノッティンガム大学客員研究員に。97年、京都大学教育学部助教授、02年、同大学院教育学研究科教授、07年、京都大学こころの未来研究センター設立と同時にセンター長に就任。専門は認知心理学、認知科学。教育学博士。著書に「よくわかる認知科学」「顔と心―顔の心理学入門」(いずれも共著)など。社会の中から研究テーマを見出し、その研究成果を社会に還元する―を信条に、センターをけん引する。

 私の両親はともに関西出身で、父は大阪生まれ、母は奈良生まれ。戦後、京大工学部を出て北海道の製紙会社に就職した父は、実家でお見合いをして母と結婚し、ふたりで北海道に渡りました。当時、大阪から北海道までは汽車と連絡船を乗り継いで2日がかりの旅だったそうです。親戚からは「北海道はソ連(現ロシア)の領土になってしまうかもしれない」と本気で心配された、と母から聞きました。でも父と母は、気候の厳しい新天地での生活を、けっこう楽しんでいたように思います。私は小さい頃、両親にせがんでおもちゃの刀を買ってもらい男の子とちゃんばらごっこをするような、やんちゃな子どもだったんですが、両親から「女の子らしく」とか「女の子なんだから」と言われた記憶がない。今思えば、かなり進歩的な考え方の親だったと思います。大学に入ってからフェミニズムや男女同権といったことをよく耳にするようになりましたが、あまりぴんとこなかった。女性だから生きにくいといった実感がなかったんですね。大学院に進むときや、研究者として仕事に就くと言ったときも、両親は黙って何も言いませんでした。

 そういえば、数年前に、ふと思い立って著名な手相見の方に手相を見てもらったことがあって、おもしろいことを言われました。その方は手相から「たましい年齢」というのを読みとるんです。たましい年齢というのは、その人がもって生まれたこころの年齢で、小さい頃からずっと変わらない(らしい)。私の手を一目見て、たましい年齢は40歳(男性)と18歳(女性)です、と言われました。男性と女性の2つのたましいが同居していると言われてちょっとびっくりしましたが、妙に納得できておもしろかった。それが両親の教育の賜物なのか、両親から受け継いだ何かなのかはわかりません。おそらくその両方が、今の私の生き方や価値観をつくっているように思います。
 高校2年生の時、父の転勤で成蹊高校という東京の私立高校に転校しました。小学校から大学までの一貫教育、一言でいえばおしゃれな都会の高校です。同級生には首相になった安倍晋三さんがいました。制服がありましたし、派手というわけではなかったのですが、北海道の素朴な高校の雰囲気とは全く違っていて、東京での生活は、何となく「自分の場所」という感じがしなかった。京都大学のことは父親からいろいろ話を聞いていましたし、昭和30年代から40年代の北海道で育った私にとって、京都はずっと「あこがれの都」だったんです。それで、大学は京都へ・・・ようやく話が京都につながりました(笑)。
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(上)両親と社宅の庭先で。(下)姉と一緒に。
 身近に古い神社仏閣を見る機会がほとんどない北海道育ちの人間から見ると、京都はほんとうに、特別な場所なんですよ。大学に入ったころは、京都のガイドブックを買って、東京から遊びにきた姉といっしょによくお寺や神社を訪ねました。京都の人には見慣れた風景かもしれませんが、町のあちこちにお地蔵様が祀られて地域の人たちが大切にしていますよね。お花や水が供えられて、通りかかった人が手を合わせていることもよくあります。京都育ちの学生と話をしていて、「京都の人たちは、お地蔵さまを本当に大切にしてるよね」と言ったら、「先生、それは違いますよ。お地蔵さまが私たちを護ってくれているから、お礼の気持ちでお参りしてるんですよ」とさらっと言われました。それを聞いたときに、ああ、こういう感覚は私にはなかったなあ、とつくづく思いました。考えてみると、千数百年もの長い間、京都の人たちはこの地で神様や仏様と一緒に暮らしてきたわけです。そうした文化の層の厚さは、日本の他の町にはありません。改めて考えてみると本当にすごいことだと思います。

 COCON KARASUMAの周辺は、銀行が集まる京都のオフィス街ですが、ほかの大都市のオフィス街とは違い、ひとつひとつのビルの外観にも味わいとこだわりがあって好きですね。ちょっと通りから路地の奥に入ると、雰囲気のある昔ながらの町家が、コーヒーのおいしい喫茶店だったり、イタリアンレストランだったり。古くからあるお店はもちろんですが、新しいお店でもそれぞれに個性があり、歩いていて飽きません。イタリアのボローニャでしたか、狭い路地の奥に古い石造りの家を改装した素敵な画廊や陶器のお店が並んでいて、歩いていて何とも表現しがたい感動を覚えたことがあります。歴史の厚みが身体に浸みてくる感じとでもいうのか。京都の町家のたたずまい、落ち着いた風情も同じようにすばらしい。

 それともうひとつ、京都の良さだと思うのは、新しいものを拒まないところ。京都には大学がたくさんあるので若い人たちが多いこともその理由かもしれません。このバランス感覚が、これからの京都にとってますます大事になるだろうなと思います。私は、古いものと新しいものの、調和のとれた共存という京都のスタンスというか、柔軟性が、日本人全体の価値観として定着するといいなあと思っているんです。うっかりすると、日本では古いものはすぐに邪魔者扱いされて、すっかり新しいものに入れ替えてしまうようなことも多いですから。

 私の専門の心理学の話をしますね。今は、認知心理学の分野で表情認知やコミュニケーションの基礎研究をしていますが、もともと心理学に関心をもった出発点は臨床心理学でした。もうずいぶん前になりますが私が学部生だった頃、教育学部でユング心理学の河合隼雄先生が行っていた講義がとても刺激的でおもしろかったのです。授業のときは教室がいつも超満員で、熱気にあふれていました。その後、自分にはカウンセラーのような仕事は無理だなあと思って認知心理学を専攻することにしたのですが、河合先生は「臨床は社会経験をつんでから始めてもぜんぜん遅くない。欧米の臨床家にはそういう人が多い。またどこかで出会えますよ」と励ましてくれました。それから30年近くたって、今、こころの未来研究センターで、臨床心理学の先生たちと一緒にカウンセリング対話の研究を進めています。若い頃の希望が今になって叶えられているというのが、不思議なめぐり合わせだなあという気がします。
 心理学というのは何をやっているのかよく分からない(笑)、と言われることが多いんです。いろいろ理由はあると思いますが、大学の中でも、心理学の研究室はいろんな学部に散らばっていて、ひとつにまとまっていないんですよ。なんとなくいろいろやっているけれども統一感がないというか、とくに国立大学はそうですね。臨床心理学と、こころの「くせ」を科学的に調べようという実証系の認知心理学ともずっと接点がなかった。

 それがこの10年ほどの間で、急速に変わってきました。心理学は今、大きな変化の時期にきていると思いますね。ひとつには、脳科学が発展して心理学とは「車の両輪」のような関係になってきたことがあります。それと同時に、社会の中にある「こころへの関心」にしっかり答えるような研究をしていこうという意識も強くなりました。よりよい生き方につながるこころのありかたとは、といったような、今までは話題にものぼらなかったことが、研究者の間で真剣に議論されるようになってきたんです。こころの未来研究センターのような学際研究の場にいると、そうした時代の変化が肌で感じられます。世間の人たちからみれば「今ごろですか」と怒られそうですが・・。センターができて5年、新しい発想のこころの研究を、京都から世界に発信してゆきたいですね。
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情報工房 2011-09-07T14:40:53+09:00
Vol. 33「世界中の芸術家の想像力と創造力を刺激する街に」鷲尾 華子 http://www.coconkarasuma.com/column/column33.html
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鷲尾華子(わしお・はなこ)/コスチュームデザイナー・アーティスト
京都市に生まれる。京都市立銅駝美術工芸高等学校ファッションアート科を経て、2001年、京都造形芸術大学空間演出デザイン学科へ。ファッションデザインコースを専攻し、舞台「モーリ・マスク・ダンスpart 8 『三原色』」、同「七人みさき」(国際芸術カーニバル)などで衣裳デザイン、製作を担当、新風館での「KYOTO STYLE」オープニングセレモニーのディレクションを務める。卒業制作展で作品名「ノミコマレタカラダ」を出品、学科賞、学科長賞受賞。05年、劇団四季に入社しコスチューム部に配属。衣裳スタイリングや製作進行に携わる。退職後、フリーのアーティストとして独立。百貨店のオブジェ製作、インスタレーション製作、舞台衣装のデザイン・製作などで活躍。最近ではオリジナルウエディングドレスのデザイン・製作も行う。9月には、山梨県にある「金田一春彦記念図書館」の記念イベント企画「ロミオとジュリエット」公演で舞台衣裳デザインと製作を担当する。

 「劇団四季」に在籍していた期間は修業の日々で、ほんとうに多くのことを学ぶことができました。大学を卒業して、四季に入社しコスチューム部に所属したのですが、その1年目から、もう責任のある仕事がやってきました。
 大勢の観客に感動を与えるミュージカルの華やかな舞台。その裏側は、それは想像もしていなかったほどハードで、忍耐と苦労の連続によって成し得る世界なんだと身をもって知りました。そうこうして、ミュージカル「WICKED(ウィキッド)」の新規衣装の製作進行を担当したのです。ブロードウェーの視察や舞台、衣装工房を見学したり、材料買い付けにも参加したり…。大きな組織の中で、自らの判断力を頼りに、たくさんの人と一つのものをつくりあげていく毎日で、それは苦労の連続。それだけに、ほんとうにクオリティーの高いものはこうやってできあがっていくんだ!と実感しました。その時の充実感は感動的ですらありました。
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Performing Arts dots 「KISS 」2009.09.19-23 京都府立陶板名画の庭 撮影:井上嘉和
 四季は海外の作品を実にクオリティー高く表現して、それがショービジネスとして成功し、またオリジナルの演目もすばらしい。特にNYでミュージカルの衣装をつくる工房を訪ね、そこにいる職人さんたちが、実に一人一人その個性を伸び伸びと発揮してクリエーションしている姿を見て強く感じるものがありました。NYでは、素材の分野に至るまで、ショービジネス全体で、個性が引き延ばされるようなシステムができあがっているんですね。

 これらの経験を経て、もっと様々なジャンルの表現者や環境と出会い、自分の可能性を試してみたいという強い思いがあって、私はフリーランスのコスチュームデザイナーの道へと進み、また、父の病もあって東京から京都へ戻ってきました。フリーランスも京都にもどったことも、やがて亡くなった父の存在、その言葉が大きく影響しています。父は、江戸時代から続く米屋を引き継ぎ、時代から取り残され傾きかけていた事業を抜群のアイデアで立て直し、大きくしました。骨董品や美術品に造詣が深く、私は、父の集めた珍しい美術品や美しい着物などに囲まれて育ち、幼いころから絵を描くことが大好きでした。父は、そんな私に油絵のセットを買ってくれました。私の絵の才能を見込んだのか、家の商売用のパンフレットや商品カタログを描かせたこともあるんですよ。

 英国のデザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドに憧れていた私は、京都市立銅駝美術工芸高等学校のファッションアート科に進み、身体や衣服をキャンバス代わりに自己を表現する3年間を過ごし、京都造形芸術大学では空間演出家であり、スーパー歌舞伎、オペラやバレエ等の衣裳・美術のデザインを手掛けていらっしゃる毛利臣男先生に学び、服飾にとどまらない総合芸術である舞台の世界にひかれていきました。
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KAC Dance Institute 2010 平山素子 ワークショップ・ショウイング 2011.3.17 京都芸術センター講堂 撮影:草本利枝
 こんな私に父は「おまえは自分の美意識を信じて自分の力でやっていけ」と常にいいました。それと、「人につかわれるな、自分でやれ」とも。これが、フリーになる大きなきっかけにも支えにもなったと思っているのですが、実は、この父の言葉の意味は、一人でやるというのは、逆に大勢の人の協力や応援がないと成り立たないということなのです。まさにフリーだからこそ、一層いろんな人と共感し、共有しあう信頼関係が必要なんだと。これは、大学で舞台をやって多くのコラボで感じたことだったし、四季での修業の時も痛烈に実感したことでした。

 フリーになってからも、京都芸術センターの公募で選ばれたインスタレーション「アウトライン~電車編」などの作品は、自分の美意識を中心にいろんなアーティストや観客の人と交流が生まれたことで成し遂げることができたんだと思っています。こうした有り難い交流で、仕事も広がりつつあります。自分一人の力ではなく大勢の人との出会いや交流を通じて、自分のオリジナルな表現が生まれてきているのです。例えば1枚の風呂敷のように、インテリアにも衣服にもなり全てをひとつに包みこむように、これからは、大勢の人と一緒に、日本の古い美しいものを大事にしながら、性差も国境も越えた自由で新しいコスチューム、空間デザインを手がけてみたいと考えています。
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ルドルフ公演 「授業」 2010.6.10-13 京都芸術センター フリースペース 撮影:東直子
 その意味で、東京から帰ってきた京都は、お寺や街並み、伝統文化など古いものばかりでなく、学生に代表される新しい息吹も満ちていて、仕事をするうえでとてもいいところです。ただ、京都が、文化都市として国際的になるには、歴史的な遺産を保持している街という事だけに止まらず、世界中のデザイナーや芸術家の想像力と創造力を刺激するような新しい魅力を持った街になる必要があると思います。この意味で、近年、この烏丸周辺は、ファッションやインテリアのお店が増えたり、COCON烏丸にFM局もあり、室町通りには、国内外のアーティストの作品制作や発表の場を設ける京都芸術センター等があり、京都固有の情報発信地になっている感があります。京都にとってとてもいい傾向だと感じますね。
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KAC Dance Institute 2010 平山素子 ワークショップ・ショウイング 2011.3.17 京都芸術センター講堂 撮影:草本利枝
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情報工房 2011-08-09T00:00:00+09:00
Vol. 32「京都で仕事ができて幸せです」関谷江里 http://www.coconkarasuma.com/column/column32.html
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関谷江里(せきや・えり)/フリーエディター&ライター
大阪府出身。学習院大学フランス文学科卒業。中央公論社(現中央公論新社)「マリ・クレール」編集部、アシェットフィリパッキ(現アシェット婦人画報社)「エル・ジャポン」編集部などを経て、1995年1月から97年1月までフランス・パリ滞在、ソルボンヌ大学文明講座修了。帰国後はフランス語の翻訳や通訳、フランス最新情報などのライター業、PR業などで活躍。2003年秋から京都と東京の半々暮らしを始め、06年夏まで週刊文春の巻末グラビアで「東西食遊記」を連載、本格的に食専門ライターとなる。2006年末京都に移住。ウェブサイト「関谷江里の京都暮らし」では京都の食に特化した体験的な日々を展開。09年4月に「京都美味案内」(扶桑社)、そして今年5月に「最新 京都美味ガイド 本当におすすめしたいお店 275軒」(淡交社)を刊行。

 10代の半ばから、京都が理屈抜きに好きでした。山登りに取り付かれた人が、「なぜ山に登るのか?」と聞かれて「そこに山があるから」というのと同じ気持ちといえばいいでしょうか。大阪府北摂の育ちですが、高校時代くらいから、カメラを持って頻繁に京都に来ていました。今のように料理屋さん巡りこそしませんでしたが、美術館に行き、枯山水のお庭を訪ねたり、お菓子をいただいたり、地図を見て計画を立てて京都を回りました。その頃から「京都が好き、カメラが好き、文章を書くのも好き」という具合で、京都の魅力を発信する今の仕事の原点といえるものがすでにこの頃にあったと思います。
 もっとも、ミッション系の学校(大阪・箕面の聖母被昇天学院)に小中高と12年間通い、中学からフランス語を勉強したこともあり、フランスへの思いも強いものがありました。それで、大学は学習院のフランス文学科に入ったのです。憧れていた作家の辻邦生先生が教鞭をとっていらしたという理由で。大学で学ぶため東京に行きましたが、京都への気持ちには変わりありませんでした。私は、「大自然」なんていうのにはほとんど興味がなく(笑)、庭園や坪庭のように、人が手をかけて作った人工の自然といいますか、人の意思が感じられる美しいものに心ひかれてきました。セーヌや鴨川が、それぞれ街の真ん中を流れるといった風情、おいしい料理がたくさんあり、人との出会いが多く、街を歩くことが楽しくて刺激的・・・フランス(パリ)と京都は、本当によく似ていてどちらも大好きです。
 大学を出てからも東京に残り、出版社に入りました。フランスの女性誌の日本版を出す編集の仕事でした。写真の手配や翻訳などに明け暮れました。ある日、パリの本社から来たフランス人のアテンドで京都を案内するということがありました。このことで、しばらく休止状態だったわたしの京都巡りに再び火がついたのです。東京にはそう簡単にない和食のおいしさ、多様性、すばらしさに目が覚める思いがして、30代初めから、わたしは月に最低一度京都に来ては2泊か3泊滞在して、料理屋さんを巡るということを始めました。
 2年ほど京都通いを続けながらも、フランスへ行きたい暮らしたいの思いはやまず、逃すことのできないタイミングが訪れた時、決心して仕事を辞めてパリに行きました。ちょうど阪神淡路大震災が起きた年、1995年の1月のことでした。
 パリで暮らした2年間は、ソルボンヌで文明講座を受講し(最終段階を修了)、「ル・モンド」(新聞)を毎日読み、映画を見て、パリのすみずみを歩き回りました。もちろんフレンチからヴェトナミアンまで食べ歩きを楽しんだ毎日。日本から胃薬を送ってもらったくらい(笑)。人生で特別な2年間だと思って十分に楽しんで、もともと一生いようと思っていたわけではないので、気が済んで帰国しました。今でも「フランスは第二の祖国」と思っています。とはいうものの、時間指定までできる宅急便などあらゆることの便利さ、電気製品など物の豊かさ、衛生観念などなど、絶対日本の方が暮らしやすいと思ったのが本心です。
 さて、日本に帰国した時点で、貯金も底をついていました。一刻も早く職を見つけなければなりません。出版社やフランス系の公的機関など、行けるところを軒並み訪ねましたが、なかなか社員での採用はないみたい。編集プロダクション的な会社に入れていただき与えられた仕事を何でもやること1年と少し、それからしばらくフリー、その後フランス系の企業のPRをしている会社に3年と少し置いていただき、本業以外にも徐々に雑誌の記事を書いたりする中で、食関係のものが増えてきて、これはひょっとして、好きな食関連なら仕事としてやっていけるかもしれないと思うようになりました。
 40歳になった年に、PR会社でやらせていただいていたそれまでの大きな仕事もなくなってしまい、やむなく独立。もうライターとしてしかやっていく道はないけれど、どうするのわたし?東京にいながら京都に食べに通うことは続け、ぼちぼちと食関係の原稿を書く日々・・・でもこのままでは暮らしていけなくなる。
 そんな時、奇蹟のようなありがたいお話がありました。「週刊文春」の巻末のグラビアページで、京都と東京のお店紹介を連載するという企画。1週おきに交互にレストランや料理屋さんのご紹介をするという仕事です。「東西食遊記」というタイトルで、3年弱やらせていただきました。この仕事のおかげで、他の取材も兼ねながらおよそ1週おきに1週間は京都で滞在するということになり、それはもう熱中してあちこち訪ね、食べ歩き、「京都で暮らす」という楽しみをだんだん知ることになりました。京都に心をすっかり奪われてしまって、東京に戻っても「次はいつ京都に行けるだろう?」と指折り数える日々となり、京都のことばかり思って、もうほとんど幽体離脱状態(笑)。
 連載が終わってしばらくして、京都の住まいだった(今はなき)ホテルフジタの近くにワンルームマンションをホテル代わりに借りました。それまでと変わらず1週おきの暮らしをするはずが・・・マンションを借りるなり東京に戻るのがどんどん先延ばしにされ戻っても東京での滞在日数は短くなり、これはもう本気で京都に暮らすしかないのだと覚悟を決めました。2か月でワンルームマンションを引き払い、東京から京都へ、引越しの態勢となりました。ついに移り住む決心がついたわけです。2006年12月にいま住んでいるマンションを借りました。すでに4年半になります。
 東京から離れましたが、取材対象を京都に絞ったということもあり、移り住んで本当によかったと思っています。通信に関してはネットで時差がないわけですし・・・いやすべてはネットのおかげなのです。2006年3月に始めたわたしのサイト「関谷江里の京都暮らし」は読者100万人ですが(笑)、記録好き・写真撮影大好きなわたしが、時代のおかげで世の中にこんなに簡単に発信ができるようになったのだと思い、とても感謝しています。サイトを続けていたら、本まで出していただけるようになって・・・。
 京都らしさを看板にしたお店は大いに結構です。でも例えばCOCON烏丸のような、京都の古きよきエスプリと現代的なものがうまく融合している例はとりわけすてきだと思っています。
 京都生まれでも京都育ちでもなく外から憧れて移り住んだ京都、外来種であることを明言しています。正座もできないし(すみません)、外国人と思っていただければと考えています。外から憧れて来たからこそ、これからも京都のすばらしさを学び、よきものを発信し続けていきたいと思っています。(談)
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「最新 京都美味ガイド 本当におすすめしたいお店 275軒」(淡交社・2011年5月刊)
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情報工房 2011-07-07T12:00:00+09:00
Vol. 31「新しいものを採りいれ古いものをちょっと出す京都のすごさ」だるま商店 http://www.coconkarasuma.com/column/column31.html
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だるま商店(だるましょうてん)/絵描きユニット
1976年生まれのディレクター島直也(しま・なおや)と81年生まれの絵師安西智(あんざい・さとし)が2003年に結成した絵描きユニット。05年から京都を拠点に、独特の極彩色、グラデーションで「日本」の心と風景を表現。そのモダンと伝統、流行と土着性の入り混じった特異な作風で注目される。代表作は「極彩色熊野古道曼陀羅絵図」,「極彩色梅匂小町絵図」(随心院障壁画),「極彩色菓子来迎安楽浄土図絵」(妙心寺春光院),「福神くちゃくちゃにたにた絵図」など。毛筆などアナログ表現とCG、写真のデジタル表現をミックスしさまざまな場所をカンバスとしているが、琵琶など楽器演奏に合わせ現在進行形で描くライブペイントも。08年から京都精華大学で特別授業などを受け持つ。

島: あれは2001年のこと。ぼくは、広告関係の仕事をしていて、東京ビッグサイトで開かれていたデザインフェスタに行きました。そこで、何と気持ちの悪い絵があるものだと感心する作品を見つけたのです。アフリカの栄養失調の子どもがたたずんでいる絵で、極彩色で描いてある。絵の明るさとテーマの暗さ、その落差、インパクトに感じ入り、その絵を買ってしまいました。

安西: ぼくは、大学2年のころだったですかね。ピンクを中心に、どこまでも明るい色調で心のダークな部分を描く―今につながる考え方でもあるのですが、ちょうど、そういう自分の絵がどうしたら商品化できるのか模索していた時期でした。買ってくれた島さんは、特殊メークで顔に大きな傷を作っていたので実際の顔はわからず、会ったことは会ったのですが、実際の出会いはもう少し後になります。

島: そう、それから2年後でした。友人の誕生パーティーで私の前に偶然安西が座っていたのです。でも、その時は、ビッグサイトのことは忘れていた。彼はそこで飲みすぎましてね。

安西: それで泊めてもらうことになったのです。島さんの部屋に着いてびっくり。いっぱい絵が飾ってある中に、何と例のアフリカを描いた自分の絵があるではないですか。広い東京でこんなことがあるのかと、心底驚きました。ぼくは、絵は描いていましたが、専門の教育を受けたわけでもなかったので、島さんのデザインの話は有り難く、すっかり話しこみどんどん意気投合していったのでした。

島: それで、絵を描く以外は全部ぼくが受け持とうということに。プランニングはもちろんぼくの役割。映画やさまざまなイベントに島を連れ歩き、いろんなものを見せたり、ああだこうだと二人でしょっちゅう話をしたり…。

安西: 自分の中にあるものが、島さんからのいろんな知識と合体して、具体的なイメージとなって湧き上がり動き出すんですよ。これは今も変わらないなあ。

島: それで、二人で何かできれば面白い、と。その年(2003年)の秋には、コラボの作品を初めて秋のフェスタに出品しました。こうして、「だるま商店」は誕生したのです。
極彩色艶舞祭礼絵図 京都の春の便り・・・祇園甲部
「極彩色艶舞祭礼絵図」京都の春の便り・・・祇園甲部
安西: ぼくは、万世一系といわれる皇室にみるような、ずっとつながってきた日本の家族の血縁に興味があり、日本の古いものやドロドロした血のつながり、いわば「日本特有の湿気」というものをテーマにしているのですが、残念ながら、その知識は本やネットなんかから得たものでしかない。京都の伝統文化や民俗文化、風習を肌で知る島さんから常に指摘されても、なかなか理解できないことが多かったんですね。

島: それは、すごく面白い視点と感じました。でも、描かれた着物なんかが、残念なことにほんとうではないんですよ。このままでも10年は食べられるが、それ以上は続かない。やはり、東京ではなく京都でほんまもんに触れるべきだ。そうすれば40年後に安西は完成すると考えたのです。ぼく自身も、東京には3年くらいいればいい、その後は関西に帰ろうと思っていました。4年目で安西というすごい絵描きと出会い、京都へということになったわけです。
友禅図案・夏草金魚 宮川町・舞妓衣装 手描き友禅図案
「友禅図案・夏草金魚」宮川町・舞妓衣装 手描き友禅図案
安西: 京都に来て、東山の六波羅蜜寺の近くにある長屋を居に定めましたが、驚きと発見がいっぱい。まるで外国に来たみたいでした。それから8年、島さんから聞いていたものが、じわじわと直接体の中に入ってきています。著名な神社仏閣など文化遺産や伝統文化のすばらしさばかりではなく、何気ない町並みやすたれかけた花街の屋並み、近所づきあい、年上の人とのコミュニケーション、喫茶店文化…。京都は日常の全てが奥深い日本です。

島: まさにその「日本」がぼくたちのテーマなのです。学生のころ、アジアはじめ外国にもよく行き、関西各地、東京などいろいろ暮らしましたが、気付いたことは、日本人は、日本のことを知らないし、あまり日本のことを好きではないんじゃないかということでした。連綿と続く日本、その魅力を、特に今の若い人にどうわからせたらいいか。

安西: 例えば、和服。かしこまった着方が今は一辺倒だが、一方で、実は、思い切り崩した着方もある。Tシャツとスーツを着わけるように、ちゃんとした正装以外に自由な着物の着方がいくらでも浮世絵なんかには残っています。このように、時代の流れから置いて行かれたようなものを拾い上げ表現し、現代の京都から発信していこうというのも、ぼくらの仕事の特徴だと思っています。
島: 京都は、身近にいろいろな人がいていろんな日本のものがあり、興味が尽きない街です。仕事でちょくちょく来ますが、烏丸通も面白くなってきていますね。COCON烏丸ビルの唐長さんの版木をモチーフにしたディスプレーは、特によく京都の特性を表していると思います。新しいものを取り入れ、古いものをちょっとずつ出す―まさに1200年の間、京都の街がやり続けてきた伝統そのものです。もっと、アート関係の店とか展示の場を烏丸通一帯に広げ、特色にしていけば、日本、世界中から人がやってくるにぎわいの界隈となるのではないかと思います。
「極彩色梅匂小町絵図」真言宗大本山随心院・障壁画
「極彩色梅匂小町絵図」真言宗大本山随心院・襖絵
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情報工房 2011-06-10T14:00:00+09:00
Vol. 30「京都は闇の深さが独特ですばらしい」いしいしんじ http://www.coconkarasuma.com/column/column30.html
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いしいしんじ(いしい・しんじ)/作家
1966年、大阪市生まれ。京都大学文学部仏文科卒業。リクルート社勤務の後、94年、「アムステルダムの犬」で作家デビュー。2000年、初の長篇「ぶらんこ乗り」で注目を集める。03年「麦ふみクーツェ」で坪田譲治文学賞受賞。04年「プラネタリウムのふたご」、06年「ポーの話」、07年「みずうみ」がそれぞれ三島賞候補に。その他「トリツカレ男」「雪屋のロッスさん」。エッセイ・対談に「人生を救え!」「その辺の問題」(いずれも 共著)、『「しいしんじのごはん日記」など。09年から京都市左京区に在住。SPレコードを蓄音機で聞く鑑賞会などユニークな活動も評判で、KBS京都ラジオでDJも担当している。

 大阪で生まれたぼくは、自由学園幼児生活団というところで幼稚園生活をおくりました。その4歳半の時に書いたのが、「たいふう」という物語です。台風に直撃され跡かたもなくなっている港に帰ってきた船乗りが、来る日も来る日も一人ぼっちで、青空を見上げては今度台風が来たら吹き飛ばされてしまいたいと思う、という暗い暗いお話なんですよ。この物語はぼくの作家としての原点といえます。30歳を越えたころ、物書きとして壁に突き当たり、精神的にも肉体的にもぐちゃぐちゃになり大阪に帰っていた時、書いたことも忘れていたこの物語のことを思い出しました。母にたずねると、何とつづらの中に残してあるというのです。つづらの中には、そのころ書いた20ほどの作品もありましたが、それらとは違って「たいふう」は衝撃的でした。何よりも受けをねらっていない。祖母から聞いた伊勢湾台風や室戸台風の恐ろしさをもとに書いたのでしょうが、自分と離れている自分以外の世界を、言葉で飛び越えようとする意志があるんです。ほかのは、そのころの流行語を採りいれたり怪獣を出したり、友達を意識して書いているんですね。そうか、「たいふう」以後は、きょうまでずっと、注文されては読者に迎合するものを書いてきたのか。これが、壁の原因なんや。「たいふう」を書いた時のいしいしんじ君はエライ。この時のように書いていけばいいんだ。4歳児が34歳の経験知で書くという具合に…。これでぼくは、苦境を乗り越え、最初の長編「ぶらんこ乗り」を世に登場させたのでした。
 ただ、ぼくは作家をめざして一直線だったわけではありません。大阪府立住吉高校時代はジャズのサックス奏者になりたかったんですよ。でも、その思いは3年生の時見たシャガールの展覧会であっけなくひっくり返りました。「描いたる事はみんなぼくの頭の中にある。ぼくがやることは画家やったんや」というわけです。急きょ、京都市立芸術大学を受けました。にわかなことでしたから、当然のように受験は失敗。卒業後、デザイン事務所に勤め、絵描きへの夢をつなぐのですが、その社長さんが「君が絵の道に進んだら気が狂って野垂れ死にやな」と。これでつきものが落ちたというか、半年ほどで勤めを辞め、翌年の春、京都大学に入りました。
 4年間は学生やったらええんやと思っていましたから、ぼくは、いわゆる就活は特にしていなかったんです。そんな時、ある先輩から、東京に飯を食いにこいやと誘われました。結局それが面接で、リクルートに入社します。あの「リクルート事件」の真最中。武道館の入社式では、何と、新入社員代表として答辞を任され、チェッカーズの「涙のリクエスト」を「涙のリクルート」という替え歌にして歌い、新聞で話題になりました。面白くもない歌詞に変えられていて憤慨しましたが…。結局、リクルートには5年いてもぐりのバーをやったり、外国へも行ったりして最高に楽しかったですね。そしてアムステルダムに行った時の旅行記が、デビュー作「アムステルダムの夜」となって講談社から出版されることになります。こうして、作家としての暮らしは始まり、東京の浅草から神奈川の港町三崎へ、そして信州の松本、今の京都と移り住んできました。京都は間もなく2年になります。よく、なぜいろんなところへと聞かれます。でも、全部たまたまなんですよ。ぼくには、どこに住んでも一緒で、あまりどこどこだからという肩肘張った思いはありません。ただ、今回は、なんで京都は、ぼくにこんだけよくしてくれるのかと不思議です。まるで、座りなさいと座布団を出してもらって、その上、ご飯の心配までというふうな具合なんですよ。人のネットワークがどんどん広がり、学生時代の4年間に比べずいぶん京都の視野も広がりました。
 実は、小学生だったころ、京都には、よく一人で来ていたんです。面白いプラモデル屋さんが数軒あってチンチン電車に乗って店をはしごするのが楽しみだったのです。その時、京都では、何か見えているものと違う音が聞こえてきたことを覚えています。ザワザワッと。おばあちゃんにいうと千年の都やから、そらそうやと。確かに独特なんですね。不思議なこともたくさん起こります。荒神橋あたりが大好きなんですが、京都は都会なのに闇がとても深く、すばらしい光と闇のグラデーションがある。多分京都には、景観についてもこれまで営々と送り伝えられてきた無意識のようなものがあると思うんです。「京都の幻」といえばいいか。だから無茶な変化は望まない。景観は人間が作り出すものであると同時に、自然とそうなっていくという側面がある。近代的なものについても、最近のCOCON烏丸を中心とした烏丸通周辺の試みのように、昔のいいものを生かして現代に溶け込ませようという試みが、まさにそうだと感じます。京都の人の無意識にある大事なものを後世に順送りで伝えていこうとする思いは、これからもパリやニューヨーク、同じ観光都市でもカイロなんかとは全く違う独特の景観をつくりあげていくことになると思います。

 しばらく京都にいます。何か「ジワジワーッと京都が出てくるような作品を書きや」といわれているような気がしているのです。
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情報工房 2011-05-16T12:10:14+09:00
Vol. 29「京都!時間と手間をかけたセンス、個性のすばらしさ」カヒミ・カリィ http://www.coconkarasuma.com/column/column29.html
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Kahimi Karie(カヒミ ・カリィ)/ミュージシャン
1968年生まれ。91年、ミュージシャンとしてデビュー。以後、国内外で作品を発表、98、99年、ベストアルバムが発売されUSツアーを行う。NHKFMのパーソナリティー、連載コラム、映画コメント執筆、字幕監修など活動は多彩。2003年発売のアルバムを機に菊地成孔氏のバンド、大友良英氏のユニットにも参加、ジム・オルーク氏、ヤン富田氏を加えアルバム発売。新アルバム「It’s here」発売中。また自身の経験を元にオーガニックスキンケア「Preens」のプロデュースを手掛けている。

 小さいころは、結構、移動が多い暮らしだったように思います。数えてみると、生まれてから現在まで引っ越した家は約20軒もあり、自分でも驚きでした。10年間弱住んだパリでも、3回引っ越しましたし、何か移動癖といいますか、そういうものが自分にはあるかもしれません。子供を持った事もあり、自分の根っこというか、特に最近、そういうものをすごく考えるようになってきたように思います。
 親は、クラシックやジャズ、映画音楽など、音楽がとても好きな人だったので、私も音楽に触れる機会が多かったと思います。それと両親がクリスチャンで毎週教会に行っていたので、子供達も自然に聖歌を覚えたり、家族全員で唱歌をハモったりして遊んでいました。このように音楽は、ほんとうに身近にあったのですけれど、音楽の勉強をしなさいとか、音楽家になりなさいとすすめたことはまったくありませんでした。私も、音楽よりどちらかといえば小説とか絵画の方に関心があり、それもヨーロッパの芸術に心ひかれていました。
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映画も大好きでした。家の近くの映画館は、いわゆる名画座。海外の古い作品がよく上映されていて、小学生の時からしょっちゅう出入りをし、中学生になるとあんまりよく行くので映画館のおじさんが時々ただで見せてくれるように。フランス映画、中でもゴダールやトリュフォーのヌーベルバーグの名作はずいぶん見ました。おじさんには、ほんとに感謝です。 

 高校生になって、自分のヨーロッパ好きは結局何だろうと考えた時に、それは、作品の個人主義的で退廃的なところかもしれないと思いました。そして、ヨーロッパの中でも好きなのはフランスだなぁと気付いたんです。ちょっとませていて、さめたところがあったのかも。高校3年生になると、ますますアートへ傾斜してゆき、特に写真をやりたいと思うようになりました。それで卒業後、写真の専門学校に行き、音楽雑誌のカメラマンに。その時、音楽との出会いがやってきたのでした。
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 雑誌の仕事で知り合った人が、インディペンデントのレコード会社を作ることになり、私は、写真とデザインを担当することになったのです。そうこうするうち、アーティストが足りないからと、声がかかりました。私の声や音楽の趣味とかが面白いと思われたようでしたが、まだ、写真家になりたいと思っていたので、その時は音楽はおふざけ、というか軽い気持ちだったんですね。
ところが、参加してみて、へえ、音楽ってこうやって作るのかと、とても面白いと思いました。そして、わからないもので、私の曲はずいぶん評判がよく、すぐにシングルを作らないかと。それも好きなようにやっていいといわれて出した曲「Mike Always Diary(マイコルウエズの日記)」が、とてもオタクな曲で、一般受けなどしないと思っていたのに評判がよく、だんだんメジャーの方からも誘っていただくようになったのです。
 私は歌唱力でスタートしたわけではありません。そうですね、例えば映画の中で、主人公が田舎の細い道を歩いていて一人で歌っていたりするようなシーンが好きで、そんなふうに歌えたら…と。声量は基本的に低く、素直にという歌い方ならできると思ってやってみたのです。フランスのシャンソンは、歌うのがうまいというより、心に訴える強いものがあるかどうかが問題で、その人のハートがそのまま出るようなものが多いですね。私もそういうふうに歌いたい。特に当時、ボサノバとセルジュ・ゲンズブールの作品に影響を受けていて、私のウイスパーな歌い方もその辺りからきていると思います。
 海外でも、たくさん仕事をしていて、いろいろな言葉で歌っています。私は、地球を大きな家と考えていて、そこには沢山いろんな違いがある面白い部屋があり、入ったことのない部屋には入りたいと思うのです。確かに、それぞれの違い、つまりアイデンティティーは絶対大事で、私も、日本人であることを意識し、日本語で歌うことを特別に大切にしたいと思っています。しかし、例えば陶芸や染織など民芸品の中には、大昔、交流もなかったはずなのに、似ているものがありますね。私はこのことに興味があって、歌をいろいろな言葉で歌っていても、ずっと深いところにある、言葉の違いを超えた普遍的なものを訴えていきたいと考えているのです。私の歌から、このメッセージを感じ取っていただけたらうれしいですね。

 京都にしばらく滞在(3月30日現在)しています。何でもないような細い通りの街並みの美しさ、人の意識に美学が感じられるなど、そのセンスと個性でパリと共通するところがあり京都は大好きです。コンサートをした法然院では、カエルが私の声に反応してくれました。明恵上人の高山寺には、深く心癒されます。市街地でも、COCON烏丸もそうですが、壊して新しいものをではなく、古いものがうまく手入れされ活用されていてすてきです。時間と手間をかけたすばらしさ。独特の古い文化が大切にされ現代性が同時にある京都は、世界的に見てもとても魅力的な場所です。保存の苦労は大変でも、それを越えて大切にしていかなければならないと思います(談)。
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情報工房 2011-04-19T11:34:27+09:00
Vol. 28「京都の誇りを“光”で世界に」内原 智史 http://www.coconkarasuma.com/column/column28.html
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内原智史(うちはら ・さとし)/ライティングデザイナー
1958年、京都市生まれ。京都教育大学付属高校時代にデザインの魅力を知り、多摩美術大学デザイン科へ。卒業と同時に、日本のライトアップの第一人者で照明デザイナー石井幹子デザイン事務所へ。10年の勤務の後、京都で清水寺、高台寺、金閣寺、平等院のライトアップを手がけ、建物や景観の本質を浮かび上がらせるという独特のライティングで、寺院照明の先鞭をつける。六本木のクリスマスイルミネーション、表参道ヒルズ、羽田空港ターミナルの照明など手掛ける。また、コミュニケーションデザイナーとして、穏やかな心や優しさを表現する住宅用の照明の提案も積極的に行っている。

 近年、フランス第2の都市リヨンは、街ごと世界遺産の景観を365夜、「光」で演出するライトアップを続けている。同市の市民が家々の窓にロウソクをともし、新しい礼拝堂とマリア像を照らしたという150年前の故事にちなむ「光の祭典」という行事がある。12月8日から数日間催されるこの「祭典」は、今では幻想的な光で美しい街並みや建造物を浮き上がらせるライトアップも加わり、4日間で400万人もの観光客を呼び寄せる一大イベントとなっている。また、この祭典には世界中からライトアップの専門家が集い、照明による都市デザインについて意見交換や交流を行う機会となるなど、光をコンセプトにしたヨーロッパでも例のない催しといえる。そして肝心なことは、この催しが期間限定のイベントにはとどまらず、通年で行うさまざまなライトアップと連係していることだ。光は、まさに「光の都市」を演出するリヨンのインフラ(産業・社会基盤)なのである。
 リヨンから話を始めたが、生まれ育った京都には特別な思いがある。実は、京都はどうにも息苦しいところがあって、東京の大学に行った。卒業して勤めたのは照明デザイナーの石井幹子さんの事務所。あまり出来がよくない社員で、最初の3年間は怒られてばかりだった。それは立ち姿のイロハからというようなレベルで、実に悔しい思いをさせられた。でも、まあ、へこたれずにやったおかげと思うが、4年目に、あるプロジェクトを任された。厳しくされてきた分だけ、自分で決めて物事を進められる快感は格別だった。こうしてどうにか仕事ができるようになるにはなったが、何かそのまま東京で仕事を続けることにためらいがあった。うまくやれても、石井先生のコピーに過ぎないのではないか…。
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「六本木ヒルズ ヒルズアリーナ」
カメラマン:ナカサアンドパートナーズ
 事務所に入って10年が経って転機が訪れた。区切りもよく、ちょうど、イタリアの有名な照明デザイナーから来てもいいよといわれていた。ところが、運命というべきか、京都にいた親父が癌だという。事務所を辞めた私は、イタリアではなく京都に帰ることにした。1992年のことだった。帯屋だった親父は大層な「文句言い」で、着物姿の人を見ても、料理の盛り付け一つでも必ずぼやいた。親父は私をいろいろな所に連れていってくれたが、その時もそうだった。だが、このとめどもないほどの親父のぼやきでライティングデザイナーとしての私のセンスが培われたと思っている。そんな親父への情を私は何よりも優先したのだ。京都に帰ってから2年間、病院に詰めて父を看病する一方で、現在恒例行事となった清水や高台寺などのお寺のライトアップに取り組んだ。その間は、ほとんど十分な睡眠もとれず、憑かれたように看病とライトアップに必死に打ち込んだが、ライトアップが完成し、夜のお寺や桜に新たな命を吹き込んだ直後の4月24日、親父は私の仕事を見届けるように他界した。
 京都でのこの2年間が、まさに私の大転換点となった。石井事務所で仕事をしていた時から、私には建築と照明に関して信念があった。それは、ライティングで昼間を再現しないということだ。建築は、そこに人が住むなど、人とのかかわりがあって初めて美しい。だから、太陽より、人間がつくった光の方がさまざまなことを表現するのにはふさわしいはずだ。お寺のライトアップもその考えで臨んだ。例えば子供のころによく遊ばせてもらった今日庵や親父と飽かずに訪ねた数々の寺院。障子が光を通すさま、格子がつくる陰影…、上から光を取り入れる西洋の建物とはまるで違う京都の建物と光のことが、私の内にはごく自然にあった。それらを胸に、お寺のライトアップに臨んでみた。ところが、予想をはるかに上回り、京都のお寺の持っているすごさに改めて驚いた。もう、障子の向こうに電球の明かりを置くだけで格好いい。軒先に少し光を当てれば、それだけで建物のすばらしさが浮き上がる。歴史を重ねてあり続けてきた建物や景観の深さ、重さ、すばらしさ。何も細工はせず、ひたすら表情を見る。湧きあがってくるもの、本質を見る。名刹のライトアップは、歴史から今の状態まで、照らす相手をよほどよく見て研究することが大事だと教えてくれた。コンセプトとリサーチの重要さ。京都でたった2年間体験したことと、10年間事務所で経験したことの重さの比率がここで逆転した。こうして私の中に、光で優しさや心の内などを表現するコミュニケーションデザインというジャンルに導かれていく。
 私は、実はそのころ「京都光構想」というものを作っていた。京都は古都と先進的な都市が同居するものであって、それは壊したりつくったりする物理的な行為ではなく、光を使いその二つながらを表現するべきだという考えで、清水などの寺院のライトアップは実践例でもあった。この考えは今でも十分通用するものと思っている。
 その京都は最近、この烏丸周辺で動きがあるように、新しいにぎやかさも出てきて、夜の雰囲気はよくなってきたと思う。ただ、この個的な展開をもっと京都全体に広げていくことが大事だ。京都の魅力は、日本の誇り。問題はその誇りをどう世界に向かって打ち出していけるかだろう。最初に書いたリヨンは、誇りを光で打ち出した。京都も伝統と先進性を併せ持つ魅力をもっと世界にアピールするべきだ。光はそのためのすばらしい媒体となるだろう。観光客の夜間滞在率も上がるに違いない。
 若いころ、回りくどく辛気臭くて逃げだした京都のさまざまなものが、今すべて、私にとってかけがえのない魅力になってきている。
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青蓮院門跡:カメラマン・中山寛治
夜間拝観:3/12(土)~3/21(月)、4/23(土)~5/8(日)
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情報工房 2011-03-18T19:05:33+09:00
Vol. 27「京都は世界の至宝、経済優先改め厳しい規制で守るべき」辰巳 琢郎 http://www.coconkarasuma.com/column/column27.html
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辰巳琢郎(たつみ・たくろう)/俳優
1958年大阪市生まれ。京都大学文学部卒業。在学中は「劇団そとばこまち」を主宰し、80年代前半の関西学生演劇ブームの立役者となる。卒業と同時にNHK朝の連続テレビ小説「ロマンス」で全国区デビュー。以来、知性・品格・遊び心と三拍子揃った俳優として幅広いジャンルで活躍中。舞台では水谷龍二演出「サイモン・ヘンチの予期せぬ一日」、宮本亜門演出「キャンディード」、「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐役など多数。自ら企画した「辰巳琢郎ワイン番組」(BSフジ)や「辰巳琢郎の家物語~リモデル☆きらり~」(BS朝日)も好評放映中。著書には「道草のすすめ」、「辰巳ワイナリー」等がある。京都市観光大使、国民文化祭・京都2011特命大使なども務める。

 学生時代、ほんとうに京都大学は自由で、演劇に関しては、やりたいことを好きなようにやりきったなあと感じたほど。京都はそんなこともあって思い出深く、そして今も月に一度は仕事やいろいろな集まりでやってくる、身近な街です。
 僕は、生まれも育ちも大阪で、父は大阪市役所に勤める地方公務員でした。例えばテレビは、NHK、民放ではクイズ番組か野球しか見ないというような家で大きくなりました。小学生時代は、特に勉強をしたという覚えはありませんが、神童といわれるほど(笑)勉強はできました。こんなことで、大阪教育大学附属天王寺中学校に入学しますが、驚きました。来ているのは本当に勉強できるやつばかり。校風は、真面目というか、オーソドックスというか…。僕は、みんなと同じように勉強に励むわけでもなく、映画ばかり見て過ごしました。こんな調子だったので、同じ教育大の附属高等学校天王寺校舎へ進んでからも成績は芳しくなく、180人中の100番から150番ぐらいの成績。ただ、中学と打って変わり自由な校風がすばらしい。これが僕にとっては大きな転機となりました。
 附属高校天王寺校舎(附高)は、「試験監督のいない学校」として知られています。このことが象徴するように、自主性を重んじる自由な雰囲気にあふれている学校です。実際、人の答案を見て点をとったところでどんな意味があるのだろう。僕も答えに窮し、答案用紙にヴェルレーヌの詩を書いたり、物理批判を書いてみたりといろいろ答え以外のことを書き記して提出したことがありました。この高校では、それでも、人の答えで点数を稼ぐカンニングよりよほど高く評価され、点数をもらえました。いわば古き良き時代の旧制高校のような雰囲気が漂っていたといえばよいでしょうか。こんな自主・自立の自由な校風の中で、僕はある時、つかこうへいさんと出会いました。大阪市内で初めて公演された「ストリッパー物語」を見たのです。それは衝撃的でした。学芸会ぐらいでしか芝居らしいことをしたこともなかったのですが、この芝居で、自分も劇団を作ろうという思いに駆り立てられました。それほど、つかこうへいさんはすごかったのです。すぐに仲間と「劇団軟派船」を立ち上げました。そして、2年生の春、修学旅行最後の夜に北海道の支笏湖にある観光ホテルの宴会場で、旗揚げ公演をやりました。こんなことができたのも、附高の校風がそれを許してくれたからこそでしょう。その後、公演は、卒業までつかさんや唐十郎さんの作品など5回ほどやって結構評判も良く、昼休みには附高放送局(FBS)をジャックしてDJをやったり、好きなことをやらせてもらえました。
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「烏丸 そとばこまち アトリエにて」
 大学は、父の母校ということもあり、大阪の高校生としてはごく普通の感覚で、京大に決めていました。入学し、既にあった「劇団卒塔婆小町」に入団し芝居を始めましたが、京大の自由さは想像以上でした。授業には、ほとんど出ず、まさに「芝居とマージャンの日々」。代がわりして「劇団そとばこまち」となってからは、ご存じのようにどんどん人気が出て、関西の演劇界を引っ張る存在として知られ、毎春には劇団員が100人ぐらいにもなるほどでした。団費も潤沢で、烏丸通御池(後、烏丸松原)に自前のけいこ場兼小劇場となるアトリエを構え、1日中好きな時に自由に練習できる、学生演劇としては考えられない恵まれた環境をつくり出しました。
そのけいこ場を貸しスタジオとしても運営したり、冠公演を実現したり、座長の僕は役者もやりつつ、制作、ビラまきやマスコミ周りなどの宣伝など、プロデューサー業及び社長業をこなしていたんです。こうして、7年間大学にいて、演劇に関してやれることは20年先のことまですべてやったという思い。それと、学生演劇の限界というか、「そとばこまち」の限界を感じ始めていました。ずっとやっていれば天下も取れたかもしれません。が、就職して、団員、メンバーが変わってしまうのが常。とくに京大生はいいところに就職できますから・・・・ここらが潮時か。自分も何か次のことをと、NHKの朝の連続ドラマ「ロマンス」のオーディションを受け、合格したことで新たな世界が始まりました。テレビの世界を知りたいとの思いもありましたが、そこから、食やワインの番組とか、ドラマ以外にも広がり、今日に至っています。恩師の喜志哲雄先生に「来た仕事は断るべきではない」と教えられたこともあるでしょう。つまり、オファーがあるということは、自分ではわからない才能を人が気付いてくれているということで、自分の可能性を広げる意味でも、来た仕事を断わるのはおこがましいという教えです。
 このように、京都では多くのことを学びました。夜明け近く、一条寺近くの叡電の線路を歩いていて振り向くと線路のはるか先に見えた京都タワー、大文字山からの京の街並み、吉田山…私の中には、そのころに体験したすばらしい京都のイメージもたくさんあります。もちろん、もっと知られた数々の社寺や伝統のたたずまい、山紫水明の景観など、全人類の至宝といえる魅力が京都にあることは否定しません。だが、多く指摘されるところですが、急速にその魅力が失われていると感じざるを得ません。町家の再生とか価値のある古いビルの再利用とか、この烏丸界隈でもいろいろな試みが行われていることは喜ばしいことだし、いい雰囲気も感じられます。ただ、売らんかなの商売優先では、先は見えています。京都は、経済的とか合理性という言葉の対極にあるべき街なんです。ましてや「市場原理」などという下品な言葉とは無縁でなければなりません。不便でももうからなくてもいい。和の心、日本の伝統、美意識、精神世界を守ること、景観こそ財産だというポリシーがこの街にはふさわしい。もっと強引な規制があってもいいのではないか。そうすれば、いつの時代も色あせぬ日本が世界に誇る「観光都市」として、京都はあり続けられると思うのです。
<お知らせ>
2011/6/2(木)~9(木)名古屋御園座「恋文~星野哲郎物語」で星野哲郎を演じます。
※辰巳さんのお名前の「琢」の字は本来は文字右側に点が入りますが、本文中ではパソコンの表示上「琢」の字を使用しております。予めご了承ください。
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情報工房 2011-02-18T17:27:26+09:00
Vol. 26「やればやるほど、奥深く新しいことがわかってくる」茂山 宗彦 http://www.coconkarasuma.com/column/column26.html
茂山宗彦
茂山宗彦(しげやま・もとひこ)/大蔵流狂言師
1975年、京都市生まれ。祖父は大蔵流狂言師 四世茂山千作、父は二世茂山七五三。79年「以呂波」のシテで初舞台。京都造形芸術大学卒業。94年、従弟の茂山 茂、弟の茂山逸平 と「花形狂言少年隊」を結成、2000年には一門の若手と狂言の研修錬磨の会「TOPPA」を組織し狂言普及へ積極的な活動を続ける。その一方、ミュージカル、NHKの朝の連続ドラマ出演や新作二人芝居 「宗彦、逸平のThat’s Entertainment」 上演など幅広いジャンルで活躍を続ける。もっぴーの愛称で、大好きな自転車のことなどブログで語る。

 古典というのは、ずっと昔のものがそのままあるのではなく、常に新しいものだと考えている。それは、ちょっと目新しいことをしてみるというような軽々しいことではなく、いつでもその時代を生きる者が、その演目に新しい息吹や感覚を吹き込み、技を練り上げてきたという意味においてである。もし、単に古臭いことを繰り返しているだけであれば、狂言が600年もの長い間、世間の支持を得て続いてこられるわけがない。茂山家には、おおよそ180番もの演目が伝わっているが、例えば、「附子(ぶす)」とか「棒縛り」は、おそらく初めて上演された時は、きわめて斬新、アバンギャルドな演目であり、見る人をびっくりさせ、笑いに巻き込んだのだと思う。その精神を、いつでもいつの時代も演じる者は持ち続けなければならないのである。同時に、狂言の新しさを見てもらい、感じてもらうためにも、決められた技や型のけいこを徹底的に繰り返し体の中に打ち込み、自らのものにして伝統の演目をやり続けることこそが、ぼくは逆に大切だと思っている。伝統の世界で、気をてらうようなことは全く通用しないのである。それはただ、「狂言風」のものに過ぎない。伝統というのは、そんな思いつきのようなことでは越えられないし、簡単に壊せるものではない。90歳を超えている祖父(四世茂山千作)は、世界一の狂言師なのに、未だに納得がいかない時は基本に返って一生懸命台本を読むし、孫のぼくにも「どうやった」と聞いてくる。「えっ、人間国宝が何いうてるねん」と思うが、やはり一生かかっても、もうこれでいい、ということのない難しい世界なんだと痛感する。
 4歳の時に踏んだ初舞台の時のことは、ほとんど覚えていない。ただ、お風呂のお湯の中で、親父(二世茂山七五三=しめ)の膝の上に座って何回も何回もセリフを繰り返していたことは思い出す。それが、初舞台で披(ひら)いた「以呂波」の練習だったんだろうと思う。それからは、学校から帰ったら狂言の練習、土、日曜日は親父について楽屋にいったり舞台のけいこという生活が日常となった。これが当たり前と考えていたわけだが、少し大きくなって、どうも他の家とは違うと感じ始めた。うちなら扇子が置いてあるテーブルにはたいてい新聞がのっている。足袋や帯の代わりによその家では靴やネクタイという具合。
茂山宗彦
おけいこといえば狂言のことと思っていたが、ピアノなどいろんなものがあるらしい…。狂言師ばかりのぼくの家やその周りはおかしいぞ、というわけだ。それに、親父の様子の変わり方にも戸惑った。父は、ぼくの中学のころまでは、京都中央信用金庫の職員、つまり銀行員をしていた。帰宅し、足袋をはき、扇子を持つと瞬時に、銀行員の父親から狂言の師匠へと変身するのだった。
 狂言は、「茂山の家に生まれたから、やらせてもらってます」というスタンス。好きでたまらないとか、どうしても続けようと思ってきたわけではない。狂言師になるより、例えば郵便配達の人や漁師になりたいと考えることすら本気であった。そんなわけで、大学を卒業するころも、まだ迷っていた。そのころ、実は、親父からは「好きなことをやれ」といわれ、「ラッキー」と思っていた。だが、いろいろ試みたが、ちょっと狂言の方がましにできたというか、他のことでは食べて行けへんなというのが現実の判断で、親父に「狂言やらしていただきます」と。
茂山宗彦
 以前から、テレビドラマや舞台出演、DJとか、狂言以外のこともさまざまやっている。しかし、マネージャーもいないし、売り込んでいるわけではない。頼まれたら断らないように、断る理由がないようにしている。うまくできなかった時は悲しいし、無力さを痛感するが、頼んでくれた人の迷惑にならないよう、とにかく一生懸命。こうしたことが、直接狂言にどうこうとは考えないが、いろんなジャンルで現代を生きているぼくが狂言を演じるということは、意味があると思う。それに、多くの人に狂言というものの存在を知ってもらうきっかけにはなるだろう。最近になって、制約ばかりで型の決まったけいこなど、昔は苦痛だった狂言のことが面白くなってきた。
厳しい制約の中にある型や技を繰り返し、磨きあげることで力に変わる。繰り返しやればやるほど、奥は深く新しい発見がある。狂言600年の歴史からすれば、長生きしてもぼくの人生はわずかなものだ。でも、心の底から面白がりながら、死ぬまで、底抜けに面白い狂言を演じて行こうと考えている。
 ところで、この京都は、狂言をやる者にとってもすばらしい街。本物を集めようと思えば、歩いて2時間で集められるところで、個人所有も含め能楽堂が多く、狂言のことをよく知る人も多い。「隣の人間国宝さん」ではなく、本物の人間国宝も身近にいて、狂言をやっていても最高の場所である。ただ、うまくやっている時はいいがヘタをした時はうわさが早く、たちまち住みにくいところとなるのが難点ではあるが…。最近、変化の激しい烏丸通の周辺は、金剛能楽堂が上(かみ)の方に行ってしまったり、何より室町が代表する「糸偏」が元気を失ったのが残念。COCON烏丸など、新しいにぎわいの創出で元気を感じないわけでもないが、奈良まで一本で行ける地下鉄と個性的で雰囲気がある既存の施設を使った独創的なイベントを、もっとやればいいと思う。ぼくには、アイデアがいっぱいある。
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情報工房 2011-01-21T12:10:49+09:00
Vol. 25「京都から現代の刺激的な波動を」黒田 アキ http://www.coconkarasuma.com/column/column25.html
黒田アキ
黒田アキ(くろだ・あき)/アーティスト
1944年、京都市上京区生まれ。67年、同志社大学文学部卒業。70年、パリへ。80年、パリ・ビエンナーレ出品。大手画廊の「マーグ」と契約、個展を開く。93年、東京国立近代美術館で個展、95年、サンパウロ ビエンナーレ出品。その後、美術文芸誌刊行、現代ダンスなどの舞台演出・美術担当と活動はアトリエの外でのコラボへと広がり、2005年、リヨン・ビエンナーレ・レゾナンスで「COSMOGARDEN3」を上演。その流動的で異種混合的なトータルアートスペクタクル活動は、パリとニューヨークを拠点に、国内でも東京ドームや京都の南山城村小学校などを舞台に続けられている。来年B4 600頁にもわたる作品集を刊行(アインズ株式会社+MORI YU GALLERYより)。

 京都は、生まれて20歳過ぎまで育った街。まだ家もあり、1年に何回かは帰ってくるが、既にパリで40年近く暮らしている。ニューヨークも活動の拠点の一つだ。

 私の両親とも京都の室町にゆかりが深く、父の兄は衹園祭の長刀鉾のお稚児さんにもなった。呉服を商っていた祖父はいわゆる芸術家のパトロンというか、たくさんの絵画など芸術作品を集めるような人で、そういう家系なのだろう、父のいとこは洋画家の黒田重太郎、同志社大学の経済学部長を務めた父も、京都市立芸術大学で初めて産業芸術論の講義を行うなど、美術への造詣が深かった。だからわが家には、しょっちゅう有名な画家たちが出入りし、そんな空気を吸って育った私も、子どものころから芸術は近しいもので、父がフランスで買ってきたシュールレアリスムの文芸誌「ミノトール」などにも早くから親しんでいた。高校、大学時代、当時の日本は60年安保闘争の騒擾の中で、反体制的なビートニックな雰囲気も漂っていた。私も、京都のいわゆる伝統的なものに反発し、ジャズに親しみ、観客を挑発するような演劇やスペクタクルを上演したりした。大学卒業後の70年、パリに。学生時代に1年ほどいたことはあるが、なぜパリだったか、動機は未だにわからない。とにかく、その時から今日まで住み続けている。
 そのパリでは、入学した美大は4日でやめ、結局、小さな展覧会を開いたりしながら10年間もブラブラしていた。私の転機は、日本に帰る準備を始めた80年だった。帰る間際になって何か大きな絵が描きたくなり、それを描いたらパリを離れようと…。そんなある日、住んでいた15区のキャフェで、毎日会う女性からユーゴの作家のパーティーに誘われた。気は進まなかったが、行ってみるといろんな作家や評論家が来ている。思いがけないことだったが、そのうちの1人が、作品を見せろという。描き始めていた作品を見せたところ、それが「パリ青年ビエンナーレ」に出品されることになった。そして大手のギャラリー「マーグ」と契約し、個展を開くと作家のマルグリット・デュラスが評価してくれるなど、キャフェでの出会いはどんどん大きくなり、私はパリで「画家」として認められた。
「ANGEL'S FEATHERS WHISPER」 2010 116.5x91.5cm acrylic on canvas
「ANGEL'S FEATHERS WHISPER」 2010 116.5x91.5cm acrylic on canvas
その後、美術文芸誌の刊行、演劇や舞台、建築、そして今日の「COSMOGARDEN」とさまざまな活動を続けることになるのだが、そうしたコラボを続けられたのも哲学者のミシェル・フーコーをはじめ、キャフェでの数限りない人との出会いがあればこそだった。

 こうした芸術の国フランスであるが、最近、ちょっと全体的に制度化したというか、硬くなってしんどい状態にあると私は感じる。今、世界中で競合が生じ、フランスは「世界の文化の中心」の地位を守るため、国内に「巨大なパリ」を作ろうとしている。これがいいのか悪いのかは別に、ポジションを守るため世界を視野に入れ動き出していることは確かだ。
 それで、私の故郷でもある京都についていえば、町家再生などで特色を打ち出そうとする動きのあることは感じられる。しかし、観光立国を目指す国の代表的な存在としては、いかにも世界を見るという「外の視点」がないなあと感じる。お寺など古いものはすばらしいという外国人は多い。しかし、現代の京都についてはどうだろう。いい評判は聞いたことがない。では、どうするかということだが、数軒でもいい、ファサードだけでもいい、世界トップクラスの建築家に頼んでどこにもない斬新な建物を建てたらどうか。COCON烏丸のビルのたたずまいは、その意味でいい例で、こうした斬新な建物の存在を発信していけば、世界中から多くの建築家がやってくる。そして、これは私の「COSMO-」の考えでもあるが、その波動がいろいろな人にも伝わり、新たな動きにつながっていく。
「無題」2006 194x130cm acrylic on canvas
「無題」2006 194x130cm acrylic on canvas
室町通や烏丸通、あるいは京都駅の南側にびっくりするような建物が出現すれば、伝統的世界のみか、京都には現代を代表する創造物があるということになり京都の魅力はぐっと増す。質が高ければ、これがまた新たな伝統にもなっていくだろう。

 私は、今は文化的なものの周りに経済ができていく時代だと思う。街づくりも、一つの彫刻や展覧会場の周りに喫茶店や本屋などいろんなものができていき、それが数珠つなぎに地区から地区へとくっついて街となるようなのがいいと思っている。京都には、芸術系の大学も多く、それができる力がある。どこにもない質の高いものを作って世界中から人々を京都に呼び寄せ、そしてその周りにパリのキャフェのように人が集い、議論するような場所ができあがる―これで古都京都は、世界を代表する新しく面白い街になる。
「Banquise city 2」2010 270x480cm acrylic on canvas
「Banquise city 2」2010 270x480cm acrylic on canvas
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情報工房 2010-12-07T00:00:00+09:00
Vol. 24「古今織りなす烏丸通の魅力―いろんな人、もの集う街に」戸田 直美 http://www.coconkarasuma.com/column/column24.html
戸田直美
戸田直美(とだ・なおみ)/木工作家
兵庫県三木市吉川町に生まれる。2000年、京都市立芸術大学大学院美術研究科漆工専攻修了。漆芸家具工房での「居候修業」を経て、01年、京都市東山区の共同アトリエで木の家具工房「potitek」設立。家具製作の一方で、京都NHK文化センターなどで木工教室、また木に親しむイベントを開催。シンプルだが素材感のある作品が特色で、バー、料理店、喫茶店、放送局などに椅子、テーブル、会議机などを納入。個人注文の子ども椅子、各種家具も製作する。年末には、個人作家の服やアクセサリーなど集める京都・烏丸のファッション系の店で定番の「お豆スツール」の取り扱いが始まり、2011年1月には大阪のギャラリーカフェにて、陶芸家の器展に木のカトラリーで彩りを加える。「これからも人の顔が見える範囲で、木の楽しさをお届けできるような仕事をしていきたい」と。

 金物の町として有名な兵庫県三木市。私の実家も、現在は三木市に編入された吉川町というところで金物を製造している。その工場が、幼いころの私の主な遊び場だった。父や職人さんたちが、「どんがね」という鑿(のみ)の頭につける金属の輪っかなどをつくっている工場に行き、溶接などの工程をあかず眺めていたものだった。私が木工作家となったのは、ものづくりが日常だったこうした環境に影響されたことはまちがいない。代々のものづくりの血が流れているのだろう。小さい時から、絵を描いたり、習字、工作が大好きだったし、祖父がいわゆる「いいもん好き」で、骨董品の器や茶道具など常に目にする機会もあり、自然とものを見る目が備わったと思う。そして、小学校の3年生の時、わが家の改築で決定的な体験をした。学校から帰ると、毎日、柱が組み上げられ、大きく高い木造の家が姿を現していく光景を目の当たりにした。ものすごい感動で、私は、大工さんになりたいと強烈に思った。
ぽちてっくスプーン教室
ノミ、彫刻刀、豆カンナ、いろいろな金物を体験できるぽちてっくスプーン教室
 建築家に憧れたわけだが、そうはいっても多感なころなので気は多く、その後も絵がいいなあ、デザインもやりたいなあといった具合。何かクリエイティブなことはしたいと思ったものの、到底一つには絞りきれないまま大学受験を迎えてしまった。いろいろ受験して結局、京都市立芸術大学に入学、漆を専攻することになるのだが、これには祖父の骨董趣味が背景になっていたかもしれないし、漆専攻では木工ができるというのもよかった。それに、なにより京都へのあこがれがあった。三木市育ちの母も、京都女子大学で娘時代を過ごしていて、私も、できたら京都で暮らしてみたいと思っていたから。漆については深い知識があったわけではないので、かえって予断も思い込みもなく、ただ「一生懸命頑張ってみよう」という思いで漆に素直に向き合えたような気がする。基礎を学んだ後、加飾(かしょく)、髹漆(きゅうしつ)という漆の技法のコースではなく、私は木工の方へと進んだ。漆を使うにしても、家具などでもっと自由に身近に、と考えたからだった。それに、木工を選んだことには、吉川という自然の中で育ったことや日々建ち上がっていったあの実家の大きな木造建築の記憶が、少なからず影響していた。

 こうして漆を学びながら私は、芸術系の人が集まってくるバーでアルバイトをした。いろいろな美術のジャンルの人が来て、いろんな話を聞けるのが素晴らしかった。こうした場での多くの人たちとの出会いから、今の私の仕事が導き出されてきたのである。バーで木工や漆についての考えを話しているうちに、お客さんたちが家具などを注文してくれるようになり、椅子やオブジェの製作を始めたのだった。

 そして、大きな転機が大学院2回生の時やってくる。
 それは、新しくバーをつくるというオーナーからのオファーだった。「空間にしっくりとけこむ脇役。それでいながら存在を主張するシンプルな椅子」。この注文をきいて、目からうろこが落ちた。それまでは、他にないものとか、いかに独創性があるかばかりにこだわっていた。そうか、肩肘張らんでええんや。「個性なんて、きばらんでも10人10色出てくるよ」大学で習った職人の先生がこんなこといってたなあ。すっと、迷いが吹っ切れた。お店に入れば、カウンター、そしてお客さんの後ろ姿が美しく見える。そんな注文の椅子をつくりあげた時、この世界でやっていけるかも知れんな―私の中に自信らしいものが芽生えていた。10年経った今も、その椅子は、あるようなないような雰囲気で、そのバーにしっかり溶け込んでいる。
 こうして、私は、2001年から東福寺の共同アトリエに工房を構え、家具をつくり、木を使ったいろいろなワークショップや教室を開催している。こんな木工作家としての活動が10年ほどになるが、京都は、さまざまなジャンルの工芸家や職人に会いコラボをするのに実に恵まれた街だと実感する。また、伝統の技術もたくさんあり、同時に新しい技術や情報も手に入る。こんな京都でものづくりができるということはすばらしい。つくづく京都はすごいところだと思うし、私はこれからも住み続けるに違いない。その京都で最近注目されている烏丸通も、古きもののよさを残しながら新しい感覚のお店が入るCOCON烏丸が象徴するように、京都らしい古い町家をうまく活用するなどしていろんなジャンルの人が集い、古今さまざまなものを共有し、楽しめるような場所になればいいと思う。2年前、私自身長女を生んで痛切に感じるのは、女性にとって、子どもと一緒に何かができるというのはとても大切だということだ。そんな烏丸通に、子ども連れのお母さんも気軽に来られるような所ができて、そこで私の木の教室が開けたら最高なのだが…。
お豆スツール、お豆テーブル
定番のお豆スツールと、お豆テーブル
「ふたば椅子」ベビーチェア
今年の新作「ふたば椅子」ベビーチェア。テーブルは肘置きに付け替え可能
]]> 情報工房 2010-10-20T13:12:43+09:00 Vol. 23 「京都には今の日本にないものが沸々と湧き続けている」荻野NAO之 http://www.coconkarasuma.com/column/column23.html
写真家 荻野NAO之
荻野NAO之(おぎの・なおゆき)/写真家
1975年、東京生まれ。3歳から7歳、10歳から15歳までメキシコで過ごす。2000年、名古屋大学理学部物理学科卒業、電通に入社し会社員と大学時代から始めた「ドキュメンタリー・アート」と名付ける写真家活動の二足のワラジ生活を続ける。06年、電通退社、写真家に専念。同年、第一回日本写真家ユニオン公募展大賞受賞。この間、日本各地、米国、メキシコ、中国、台湾などで「モンゴロイド文化圏の暮らし」を主テーマに展示会を開催。10年9月、ポートフォリオ「小桃―芸妓への道」を出版。09年春、名古屋から京都に移住、太秦の映画職人の撮影を開始。

 昨年春から京都に腰を落ち着け写真を撮り始めた。京都の街を歩けば、もう今の日本には、失われたと思っていたものが、沸々と湧きたっている。それは過去のもの、お年寄りにではない。若い人、その営みの中にさえいつか忘れられ、なくなってしまった日本の暮らしや文化が潜んでいて、ふと現れてくる。ノマド(流浪の人)のような暮らしを続けてきた私だが少し京都での暮らしが長くなりそうだなと感じている。
 私は地球時計という24時間でまわる時計を愛用していて、その地球儀を見ていると面白いことに数々気づく。例えば人類の移動。アフリカで誕生したといわれる人類は、アフリカを出て地球の各地に広がっていくが、東へ東へと行くと海の波のようにとーんと突き当たるところに日本がある。日本に突き当たり、人類の移動の波はさらにベーリング海峡や大陸、東南アジアの方へと分かれて向かって行ったんだろうと想像は広がりわくわくしてくる。そして、この京都についてもあることがわかってくる。北西の方から日本列島を見ると何だか日本海の波を受けとり、また返すような位置に京都はあるのだ。日本といえば京都、日本の伝統、オリジナリティーというのは世間の一致した認識だろうが、時計の地球儀から、同時に京都は世界、アジアとまたひとつながりとなっていることに改めて気付かされるのである。
 人のアイデンティティーというものについて、私は一般的な日本人とは多分少し違った感じ方、考え方をするような体験をしてきた。それはもの心がやっとつくかどうかというころと自意識が芽生えるころの2回、そして大学時代の留学を含め約10年間をメキシコで過ごしたことが影響しているのだろう。
 スペイン語を話しながらかまってきてくれる近所の現地人のおばちゃん、日本人の友達の家で日本語を話すそのお母さん―メキシコにいたころはこうした状況に対応する自分が同時にあった。そこに感じたのは同じ優しい対応なのだが、触れ合う角度というか、人と人との距離感というか、何か違いがあるということだった。そして、しかしこの何か違いのある現地の人たちと自分は、赤ちゃんの時お尻に同じ蒙古斑がある遠い昔に分かれた同じモンゴロイドなんだと知った。これにはとても感動したことを覚えている。遠く離れているのにどこか親しみを感じる日本人とよく似ている人たちがいる不思議。ところが、付き合ってみると何か違いがある。いやいや、実は同じものがその体の中には流れている―こうしたメキシコでの体験は、遠い昔に分かれて行ったモンゴロイドの暮らしや文化を世界中で探しそれを写真に撮るという、今の私の大きなテーマの一つにつながっていったのである。少しややこしい体験だったが、ずっと日本にいて同じ日本人と暮らし外国人として世界の人々と接していたら、こんなテーマには出会わなかっただろう。
 ところでこんな思いとは別に、日本に帰って高校に入り勉強したいと思ったのは実は宇宙物理だった。「ボールを投げたら、なぜ落ちてくるのか」というようなことに興味を持って受験勉強に励み、希望通り名古屋大学の理学部に入った。だが、数学があまりできなかったこともあったのか、私の中で、物理学や科学というものへの「夢」が急激に輝きを失っていく。その一方で、大きくこだわり始めたのがカメラ。そして、ネイティブメキシカンに見たモンゴロイドの底流にあるアニミズムの文化、その暮らしなのだった。試験勉強をさぼって、たまたま図書館で手にした空海の本で密教を知ったことも私の中にあった物理や科学の絶対性が色あせ、相対化する大きなきっかけとなった。
 それはそれで、私は大学3年生の時からやがて京都の宮川町で舞妓、そして芸妓になる小桃さんを撮り始めていた。中国からの帰国子女が、日本文化の象徴のような京都でそのまた権化のような花街で生きていく。その姿、心を撮ろう。これは、私の日本文化を考えることと重なる試みだった。そしてこれをきっかけに、まさしく私は京都に引き付けられた。平安遷都の大きな鍵となった秦氏に由来する太秦の深さや衹園祭などの伝統行事、さらに例えば新しいにぎわいの街といわれるこの烏丸通で見られるような日々の営み…。京都は特別なものにも何気ない日常の街角にも、既に今では日本がなくしてしまった文化や暮らしが実にあらゆるところから立ち現われるといった具合で心奪われる。今私はそんな京都に住み始め、これからこの街でどんな人の美しさや息吹を見出せるのか胸躍らせている。韓国、中国、そしてインドネシアへ行き坐女や女優、魏志倭人伝の世界の中のような人々の撮影を続けながらこの京都の街を歩き回ろうと思っている。やがて、新たな素晴らしい出会いに恵まれるだろうことを確信している。(談) 
写真家 荻野NAO之 ポートフォリオ
ポートフォリオ「小桃―芸妓への道」
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情報工房 2010-09-21T19:54:01+09:00
Vol. 22 「“ほんもの”溢れる京都の新しい街並みに」川﨑 仁美 http://www.coconkarasuma.com/column/column22.html
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©日野和恵
川﨑 仁美/
伝統盆栽 美術・研究家

1980年、京都市生まれ。京都文教短期大学卒業。幼少期から和洋さまざまな習い事を体験。能や社寺鑑賞、和装着付けなど、日本の伝統文化に心酔。高校3年生の時、「日本盆栽大観展」で盆栽と運命的に出会う。会場で、専門誌にスカウトされモデルに。その一方、美術面や地域性の視点から盆栽の魅力に迫り、伝統盆栽の研究家、展示コーディネーターというジャンルを開拓、個展などで独自の情報を発信する。2008年、チェコでの「日本盆栽ポートレート」が斬新な鑑賞方法として話題に。昨年から「大観展」の企画と広報を担当。「新しい鑑賞の方法を提案し、盆栽ファンを増やしたい」と11月の同展開催へ意欲を燃やす。来年、盆栽の「教科書のような」著作を発刊の予定。
 学校帰りだったか、たまたま目にした「盆栽大観展」のポスターが運命的な出会いの予兆だった。「そういえば、盆栽も日本の文化。まだみたことなかったな」― 高校3年生のそのころ、私は、もういっぱしの「日本の伝統文化通」を自負していた。それなのに知らないのは恥と、早速、みやこメッセの会場へと足を運んだのだった。
 軽い気持ちのはずだったが、それは、何と過剰なまでの強烈な体験に。樹齢300年という黒松の前で、私は釘づけになったのだ。見方も何もわからないのに、直感的に「すごい。これは(神が乗り移る)依代(よりしろ)や!」-雷に打たれたような衝撃。それは全身を駆け巡り、10分以上も動くことができなかったろうか。劇的な出会いとなった。と、かけられた声でわれに返った。黒松の盆栽を前に、呆然とたたずむ制服姿の女子高生、よほど不審だったのだろう。私は、またその呼びかけに「これって依代ですね」と唐突に応じてしまい、さらにびっくりさせたようだった。その人は、盆栽専門誌の編集長で、私は、その場で、その雑誌のモデルを務めることが決まった。こうして、18歳の女子高生が、考えもしなかった盆栽の世界に分け入っていくことになるのだった。
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『黒松』
 京都に生まれた私は、芸事の好きな両親ということもあり、お能には小さな時から接し、何よりも、あらゆるお稽古ごとを習わせてもらった。もちろん、日本の伝統的なものばかりでなく、ピアノやクラシックバレエなど西洋のものも欠かさず、十数種類以上にのぼった。ただ、その中で、私は、日本の伝統的な世界に強くひかれていき、また、着物姿がよく似合うとほめられ、ずいぶん気をよくし、実際、お茶やお華など、和の習いごとはよく身に付いた。そのことは、中学時代、阪神淡路大震災の時、最後に何を持って逃げるかということが話題になった際、決定的に意識された。「ものは役に立たない。身に付いたものこそ残って役に立つ」。特に、そろばん、習字という日本の昔ながらの習いごとが、日々の役に立つことを実感していた。和へのこだわりは、こうして強まり、高校に行ってからは、学校のクラブ活動で、日本舞踊を習い、和装着付けを体得。下校時には、高校近くの観世会館にいってお能を見たり、社寺を訪ねたり、ちょっと普通の女子高生とは違った学園生活だったと思う。私は、小さな時から「生き字引のようなおばあさん」になりたいと思ってきたが、それで、一風変わった高校生活を送り、やがて、前述した盆栽との出会いに導かれていったのだろうか。
 盆栽専門雑誌のモデルとなり、職人さんからマンツーマンでの指導を受け、盆栽づくりも体験した。盆栽の奥深さに感銘する一方で、そのすごい世界に触れ、私は、自分で作って楽しむことより、この美しさや観賞の方法を多くの人に説明する役割を担いたいと思った。多くのプロはだしのアマチュアもいて、ハウツー本もたくさんあるが、園芸関係以外のたとえば美術的、社会学的視点からの体系だった研究も、広く盆栽が何なのか語れる専門家もいない。私の出番があるのではないか。そう感じて、10年以上、地域によって作品がどのように違うか、もっと多くの人に見てもらうにはどうしたらいいか、「そんなもの必要ないだろう」と職人さんに笑われながら、しぶとく活動を続けてきた。
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2009年、京都大学総合博物館「日本盆栽〜自然のなかの人工美〜」でのトークショーの模様 ©林口哲也
 「BONSAI」は世界中ブームで、外国のほうがひょっとすると、本場の日本より活発かもしれない。でも、似て非なるという思いがする。たとえば、日本の伝統盆栽には「正面美」という言葉がある。盆栽はどこからでも観賞できるが、その盆栽のすべてがわかるという究極の一点を正面に据えるという約束事だ。ここに盆栽の神髄がある。この意識は、外国の盆栽にはない。
私は2008年、5点の名品の究極の一点を、実寸大の写真にして展示するという個展をチェコで開いた。それは、日本文化を象徴する盆栽の究極の美を、現代芸術で表現するという試みで手ごたえを感じた。これからも、1000年以上の歴史があり、深い精神性も秘めた伝統盆栽の素晴らしさを見出し、全く新しい表現方法や素材など工夫しながら、さまざまに発信していきたいと思っている。

 ところで、私の育った京都は、こうした伝統盆栽を再発信するには、最適の場所と思う。実は、京都の街は盆栽と似ているのである。何百年も前から、盆栽は変わらぬ姿をしている様に見えるが、生き物。毎日変わっている。そのためには、何と、最先端のバイオ技術も駆使されていることをご存じだろうか。京都も1200年、伝統を守り続ける一方で、素晴らしい目利きの力で、さりげなく新しいものを常に取り入れ、街の姿を維持してきた。どちらも、継続の知恵があり、時間と手間をかけることが値打ち、という共通性がある。つまり「ほんもの」ということだ。京都が多くの人を引き付けてやまないのは、この「ほんもの」ゆえと思う。昨今、烏丸通周辺は、時々、映画を見るCOCON烏丸のビルなど、昔のオフィス街から新しいにぎわいの街へと変わろうとしているように感じる。私の趣味としては、数寄屋造りとか日本の伝統的な建物や内装というもので、街づくりがされたらと思うが、烏丸通が、時間と手間をかけ、時代の経過とともによくなっていくような「ほんもの」の街へと変わっていくことを願っている。
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『真柏』
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情報工房 2010-08-12T18:19:30+09:00
Vol. 21 「烏丸・室町通周辺をアートで賑う界隈に」近藤 髙弘 http://www.coconkarasuma.com/column/column21.html
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近藤髙弘/陶芸・美術作家
1958年、京都市に生まれる。82年、法政大学文学部卒業。伯父の死をきっかけに、卓球一途の人生から、陶芸の世界へ。京都府立陶工訓練校修了、京都府立工業試験場修了後、近藤家代々の染付など手掛ける。90年のサンパウロ美術館での個展「Works Sometsuke」を機に、現代アートへ傾斜し個性的な造形作家へと転じる。94年、京都市芸術新人賞受賞。時空壺、銀滴など独特の造形作品による個展を国内外で活発に展開した後、2002年から、文化庁派遣芸術家在外研修員として英国エジンバラ国立芸術大学に留学。09年11月には、窯そのものが作品でもある穴窯「天河火間」を奈良県の天河大辨財天社に造営し話題を集める。
 京都・清水の陶芸家の家に生まれた私だが、すんなりと陶芸の道に進んだわけではなかった。私が夢中になったのは、卓球。今、OB会の会長をしている今年創部70年の東山高校、法政大学へと進み、そして社会人の協和発酵まで、とにかく卓球に明け暮れる毎日だった。だが、陶芸の世界へ振り返させられる大事件が起こる。京都市立芸術大学の教授をしていた陶芸家の伯父(豊)の自死である。名状しがたい衝撃だった。「陶芸は、人が死ななあかんほど深い世界なのか」。それなら、やってみたろか! そういう気持になった。25歳の春。それで京都に戻り、陶芸を一から始め6年ほど。そのころには、どうやら染付など伝統的な仕事はできるようになっていた。もちろん、祖父(近藤悠三)や父(濶)たちの技法を真似ているだけのレベルだったのだろうが、自分では、この道でなんとかやっていけるなという自信めいたものは出てきていた。   
 ところが、その後の生き方を決定づける経験をする。1990年、ブラジルの日系紙が主催するサンパウロでの展覧会のことだった。伝統的な染付作品を展示した会場にやってきた芸術家たちは、「なぜ青で描くのか」「キャンバスには描かないのか」-何と、思わぬ質問をするではないか。しかし、彼らの言いたかったのは「作家として一体何が表現したいのか」ということだったと思う。私は、はっとした。そうか、伝承だけでなく、自分の思想や内面性を明確に表現することこそ大事なんだ。モダニズムの洗礼を受けた私は、このブラジルの展覧会で「作家」としての自我に目覚めた。この体験がなければ、未だに近藤家の伝統的な染付をやっていたかもしれない。
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「Mist」
 それからは、もちろん土から離れることはなかったが、現代におけるアートとは何か、自己のオリジナルを求め、新たな造形作品に挑戦し続けた。そして、40代も半ばの2002年には、英国のエジンバラ国立芸術大学に1年間留学し、焼き物から離れ、ガラスなど異なった素材の研究に没頭。ブラジル以後は、こうした経緯で、陶芸家のカテゴリを意識せず、美術作家として、銀滴やミスト、最近のオイルシリーズなど金属やセメント、ガラスなどの素材を土と融合させるなど独自の作品づくりを手がけてきたのだった。
 今年は、陶芸・アートの道に入って25年、そして、伯父が亡くなった50歳という年齢も越えたので、一つ自分の総括をしようと思っている。いわば近藤髙弘の「死と再生」である。これまでの様々な自分の技法を、自らの顔に表現するというコンセプトの作品「セルフポートレート展」を10月に開催する。果たしてその後は、一体どんな近藤髙弘になるのか…。
 まあ、それはそれで、このように、陶芸・美術作家として生きてきた自分を見つめてみる時、生まれ育った京都は、つくづく面白い街だなと気づかされる。先端と伝統の併存はよくいわれることなのだが、1200年、常に伝統を受け継ぎ、そこに海外のものも含め最新の技術、情報を取り入れ、渾然一体に融合し自分のものにしてきた歴史が、京都にはある。それが、日本のオリジナルとして京都独特のバックグラウンドとなっている。陶芸の世界でも、中国の技術などに大きな影響を受けながらも、徐々に日本化してきた歴史は周知のこと。個人作家が生まれてきた明治時代以降、西欧から学び、巧みに伝統の技に融合して近代化という日本独特の工芸美術を生み出してきた例がある。
 ただ、私が今年、自分自身の総括を行うように、日本も京都も、ちょうど明治以降の近代化が一巡したと思われる今、現状を見直す時期に来たのではないだろうか。つまり、日本の伝統がどうモダニズムと融合してきたかを様々に検証し、これからの京都の姿はどうあるべきかを真摯に考える時なのではないかと思うのである。
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「Oil&Water」
 例えば、私は旧明倫小学校を利用した京都芸術センターがあり、町家も残る室町通や近代遺産ともいえる建物のある烏丸通に注目している。アーティストとしての提案なのだが、京都の独特のたたずまいを残す烏丸、室町界隈を、町家なども活用したギャラリーの集中する地域にできないものだろうか。京都には、ギャラリーは結構あるが、それぞれが離れ点在している。たとえば私が個展を開くニューヨークのチェルシー地区には、ギャラリーが300軒(最盛期)以上も集まっていて、そこを回るだけで半日十分遊べ、刺激も受ける。展覧会のオープニングの日は統一されているので、多くのアート関係者がチェルシーにやってきて、各ギャラリーをはしごして廻り交流が実現するのである。いわば、芸術による賑いの創出とでもいえばいいか。烏丸、室町通の界隈に、もしギャラリーが20~30軒集まったとしたらどうだろう。まさに個性ある芸術的コンテンツを持つ京都からの文化発信が実現し、日本の新しいアートシーンとして、注目されるのではないだろうか。もちろん新しい観光スポットになるのは間違いないだろう。COCON烏丸のビルも、近年、この界隈のランドマークとなったと聞くが、ギャラリーの拠点的存在になっていただいたら京都がまた面白くなる。
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パラミタミュージアム「変容の刻」個展より
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情報工房 2010-07-06T15:54:38+09:00
Vol. 20 「格調高く品格ある烏丸通をつくりたい」渡部 隆夫 http://www.coconkarasuma.com/column/column20.html
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渡部 隆夫/ワタベウェディング(株)会長、烏丸通沿道懇談会座長
1941年、京都市生まれ。京都府立山城高校卒業後、東京の貸衣装店勤務を経て、61年、母が創業したワタベ衣裳店に入店。73年、業界で初めてハワイに出店して海外結婚式ビジネスを開拓、78年代表取締役社長に就任。96年、「ワタベウェディング」に社名変更し、総合ブライダル企業をめざす。97年には業界で初めて株式上場(現在、東証1部、大証1部)を果たす。2004年、名門の結婚式場、目黒雅叙園を買収。08年には、ゆうちょ財団からホテル・結婚式場のメルパルク事業を継承。同年、ワタベウェディング株式会社会長となり、社外では、日本ブライダル事業振興協会副会長、京都経済同友会特別幹事、関西ニュービジネス協議会常任理事などを兼務する。
 長年、観光地として人気を上げ続ける京都を見てきて、近年つくづく感じることは、「街がずいぶん荒れてきたな」「京都が、普通の都市と同じようになってきたな」ということだ。具体的にいうと、京都を代表する繁華街や商店街の賑わいが、随分と俗っぽく、あるいは低俗になり、京都が持ち続けてきたすばらしい品格を伴った固有性というものを失いつつあるということ。京都で生まれ、育った者として、このことに非常な危機感を覚え、「何とかしないといけない」「行政に任せるばかりでなく市民として立ち上がらなければならない」と、思ってきた。
 そんな折、烏丸通で動きが出てきた。烏丸通に住んだり、勤務地とする者、地権者が何人か集まり、烏丸通を京都のメーンストリートにしていこうと、2008年に「烏丸通沿道懇談会」を立ち上げることになった。その目的は、風俗店や無表情なマンションが建ち並ぶありふれた街並みではなく、さまざまな規制も行い、烏丸通に品格のある賑わいを作り出そうというものだった。元々、烏丸通は金融機関や企業の入居するビルが建ち並ぶオフィス街で、土、日はほとんどシャッターを閉めてしまうといった、賑わいの街からは程遠いものだった。しかし、最近になって「COCON烏丸」の登場をはじめとし、銀行の支店ビルなどに有名ブランドが入ったりして、烏丸通の雰囲気が変わってきた。懇談会の立ち上げには、このような背景もあり、この機会に烏丸通を本当に格調高い京都のメーンストリートにしよう、という機運が関係者の間で盛り上がった。私は、新しい賑わいのスポット「COCON烏丸」では買い物や食事を楽しむし、烏丸通に本社を構えている者として張り切らざるをえず、懇談会の座長をお受けすることになった。
 懇談会を立ち上げて2年が経過しましたが、その間、風俗店や深夜営業の店の規制、また、マンション建設に際しては、通りから20メートルのセットバックがなければ建設できないなど、行政と一緒になっていろいろな法的規制をかなりのスピードで実現してきた。さらに年末には、街路樹などをクリスマスイルミネーションで飾って、夜の明るい賑わいを演出したりするなど、烏丸通は、京都らしい本物の品格にあふれた通りとして着実に生まれ変わりつつあると感じている。京都のお寺や神社はもちろんすばらしいが、それだけではない。京都には烏丸通という、高い都市格にふさわしい、賑わいにあふれたメーンストリートがある。このことが、京都市民はもちろん、多くの観光客のみなさんにも認知されてきたのではないだろうか。
 私は、両親が戦後(太平洋戦争の敗戦後)すぐに始めた婚礼衣裳店を継いだのだが、この商売をやってつくづく京都のブランド力のすごさを実感した。例えば、1973年に、ブライダル業界としては初めてハワイに店を出した。東京には、資本力の大きな店が何社もあるのだが、当社が先駆けた。これは、提携した旅行会社が、「京都」というブランド力を評価してくれた故だ。着物の生産・集散の中心である西陣、室町があり、お茶やお花、さらには多くの花街も有する京都は、衣裳の種類や量も豊富なばかりか、それにともなうソフトや婚礼のノウハウは、他の地域の追随を許さない。
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 京都を本社とする当社は、そういう意味でとても有利で、このことを東京の旅行会社などが認めてくれた。ほんとうに、京都のすばらしさを最大限活用させて頂いたと思っている。この恩返しの意味でも、だんだん薄っぺらになることが心配な京都のすばらしさを、何とか失うことなく取りもどしたい。そのお力になりたいと思っている。今、京都は、年間5000万人が訪れる観光地となり、その人気はあまねく海外にも広がっている。ただ、この5000万という数字ばかりが先行し、内容に目が行っていないのではないかと、私は気になる。サッと来てサッと帰る日帰り旅行。これでは、日本人の「心の故郷」としての京都のすばらしさはわからない。京都は、長い間、日本の首都だった。それは江戸の権力に対して、1000年を超える歴史・伝統を背景とした権威・文化の首都であるということで京都人が誇りとしてきたし、それゆえに日本人の心の故郷となりえたのだ。日本人の憧れ、誰もが一目置くすごさが京都にはあった。これを、茶・華道の家元などさまざまな先輩が、営々と受け継いでこられ、われわれはその恩恵を受け、子どものころから京都を誇りに思う気持ちが醸成されてきた。こうした歴史、伝統をもった京都のすばらしさを、日本中、世界の人々に「心の故郷」として満喫していただきたい。私は、そんな京都のメーンストリートとして、烏丸通というもののあり方を今後も考え、さらに品格に満ち溢れた街並みを作り出すため、セカンドステップ、サードステップと歩みを進めていこうと思っている。
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情報工房 2010-05-20T10:16:48+09:00
Vol.19 「温故知新 町家から京都を考える」小島冨佐江 http://www.coconkarasuma.com/column/column19.html
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小島冨佐江/特定非営利活動法人「京町家再生研究会」理事・事務局長
京都市伏見区生まれ。同志社大学卒業。1985年の結婚を機に、百足屋町の元呉服商の町家で暮らす。義父の相続にかかわり、都心部の町家の問題に直面。これをきっかけに、京町家再生研究会活動に参加、97年から事務局長となり、海外も含め、町家の再生活用、周知など精力的な活動を続けている。町家に対する理解を深めてもらうための広報を担当し、町家居住者と再生の専門家をつなぐコーディネーター役を務める。また、自宅を拠点に、「京町家歳時記」を主催している。
主な著書は、「京の町家 丁寧な暮らし」「京町家の春夏秋冬」など。
 京都市中京区にある私の家は、明治時代の建物で110年ほど経っており、京町家再生研究会の本部にもなっている。この家を、一昨年、半年くらいかけてなおした。正面も内部も、最初建てられたものから、大分変っていた。例えば、格子戸は便利だからとガラス戸に。2階の虫籠窓(むしこまど)も普通の窓になっていた。中も、モダンだと言うことだったのだろう、至るところ合板張りで、不思議な改修をされた家になっていた。屋根がさすがに古くなり、雨漏りも心配。それで一念発起、できるだけ元通りにと、改修に踏み切った。合板はすべてめくり、腐っていた柱は切り取って「根継ぎ」という伝統的な技術を使い、昔どおりになおしていった。

 今の日本の建築基準法では、コンクリートで基礎をつくり、柱と基礎がつながるようにしないといけないが、あえてそれはせず、石の上に柱がトンと乗っているだけ。何かの時は、建物だけがポンと離れるようにした。これが伝統的な木造建築、そのなおし方なのだ。研究会の本部となっている私の家は、地震の振動が大学のデータとして取り込まれるようになっているので、地震があった時は改修した家の揺れ方に変化が表われるのではないかと、分析の結果を待っているところだ。

 ところで、町家のはじまりは洛中洛外図にあるような、板葺き屋根に石を置き、表に店、奥に部屋、その横に通り庭という表から奥まで貫く土間があるというもので、とてもシンプル。敷地の形や大きさで、部屋の増減などいろいろ違いがあっても、この土間の存在は町家の特徴で、その上は吹き抜けになっている。この土間と吹き抜けが、木造の町家を水と火から守るすぐれた知恵である。しかし、昭和30~40年ころから、台所や子ども部屋を作るために、そこに天井、床を張り、町家を湿気や火の気から守ってきたこの知恵が失われてしまった。今度の工事でわかったのだが、私の家も中庭に床を張って事務所にしてしまっていたので、その下になった隅っこの柱は根元がすっかり腐ってなくなっていた。風通しが悪くなっていたのだろう。改修で中庭を復元したところ、すっかり風の通りが変わり、家の中は、風の通りが良くなり夏の暑さもしのいでいる。冬の寒いのは変わらないが、昔どおりの建て方が自然であったかということだろう。

 私は、結婚して伏見からこの家にやってきて、その時、両親がとてもこの家を大事にしてきたことを知った。祖父がこの家を譲り受けた時「この家をあずからせてもらいます」と言ったことが、家族に語りつがれている。私は母からそのことを聞いた。だから、私もその想いを大切に暮らしている。家族の思いがつまった家を、私の勝手で潰すことはできないと思っているし、同じ思いを持っている方々はたくさんいらっしゃる。しかし、バブル期のころ、住んでいるだけなのに、家が街中にあるというだけで、ぼう大な相続税がかかり手放さざるを得ないということが私の周りでもたくさん起こった。私が町家再生に関わりを始めた原点は、この理不尽な相続税を何とかしたいという思いだった。そのために、町家というものをきちんと理解してほしいと京町家再生研究会の活動に加わってきた。15年ほどして、やっと景観法の中で相続税が考慮されることになり、一定の成果は上がってきている。次は建築基準法の番である。これを変えないと、伝統的な日本の家は、すべてだめになると思う。

 昨今、着物、お茶、お花、日本舞踊など、多くの伝統的なものの継承が難しくなってきている。実は、その足元にあるのが町家である。畳に座る日本の住居の住まい方と伝統文化は深くかかわっている。それは、地域とのつながりにも大きくかかわっている。その町家が揺らいで、どうして伝統芸能や伝統産業が残っていけるだろう。町家一軒の問題が、地域も町すらなくなることにつながっていくのだ。

 京町家は今、ブームの感がある。そんなことに惑わされず、映画の書割のような町家でない、ほんものの町家を残し、新しい町家を建てられるよう一生懸命活動していかなければならない。そう、心している。
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情報工房 2010-02-26T18:19:28+09:00
Vol. 18 「“無心”という、心のあり方」小笠原敬承斎 http://www.coconkarasuma.com/column/column18.html
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小笠原敬承斎/小笠原流礼法宗家
室町時代「日本武士の定式」として確立され、代々「伝書」で継承されてきた小笠原流礼法。武士の存在しなくなった明治、大正、昭和、そして今日の平成の時代でも脈々と受け継がれ、また、小笠原礼法を学ぶため入門する人たちも跡を絶たない。同氏は先代宗家 小笠原惣領家第三十二世 小笠原忠統の実姉(村雲御所瑞龍寺十二世門跡、小笠原日英尼公)の真孫にあたる。聖心女子学院において初等科より高等科まで学ぶ。聖心女子専門学校卒業後、英国留学。1994年 小笠原流礼法副宗家に就任。1996年 宗家に就任。
主な著書は、「おそれいります」「美しいふるまい」「美人の教科書」「美人の<和>しぐさ」など。
 「礼法」というと「作法」という言葉が先行し、「堅苦しい」あるいは「古臭い」というイメージがありはしないだろうか。「礼法」とはただ、周りの人とコミュニケーションを円滑にするためのきわめて単純で日常的な手段のことである。私自身、学生時代は自分の意見をはっきりと伝えられない性分で、それでは相手に自分の気持ちが伝わらない、と何度思ったことであろう。言いたいことを、相手に失礼にならないように伝えるにはどうしたらいいか。言うべきことを相手に不快感を与えずに伝える方法、そのために「礼」を欠かすことはできない。形式にとらわれるようなものではなく、「心のあり方」さらに言えば「相手を大切に思う心」が「礼法」にとって重要なことである。

 現代において、社会、学校、まして家庭においてですら、この「相手を大切に思う心」を身につける機会が欠落していると思う。例えば交通渋滞が激しく皆が急いでいて、歩道では赤信号でも走って渡る人がいる。その人たちは “ごめんなさい”と頭を下げることもせず、われ先へとわたることに懸命で人にぶつかってもそのまま通り過ぎる。そのような自分優先で、周囲への気遣いに欠けた行動の事例は数限りなくある。これではどう考えても、社会人としての基本的なコミュニケーション能力が身についているとは思えない。また、先生と児童あるいは生徒の関係も、仲良くしさえすればいいという風潮も目立つ。やはり「親しき仲にも礼儀あり」というように、先生や年上の人には正しい敬語を用い、敬う心を表す必要があると思う。これらは当然のことであるのだが「相手のことを思いやる心」「心から他人に接する意識」が今、希薄になっているのを感じる。

 以前80代の方に「戦前は、立派な家屋に住む子どもでなくても、玄関ではきちんと靴をそろえ、あいさつができるように躾けられていたものだ」という話を聞いた事がある。最近では、20代から40代の門弟が増えているのだが、子どものしつけ方に対する疑問を持って入門する者も少なくない。。第二次大戦前には日本人に当前のこととして存在していたしきたりや規範、社会生活を営むための方法が急速に失われ、60年を経た今だからこそ、それを取りもどしたいと「礼法」に興味を持つきっかけがあるのかもしれない。

 小笠原流礼法の指導は、主に室町時代に編纂されてきた「伝書」に基づいて行われている。我々が立ち返る原点である。礼法では「無心」の大切さ、すなわち邪念も妄念もなく我勝ちにならない、自己の抑制によって、他者と好ましい人間関係を築くための手法が記されている。また室町時代に記された「小笠原礼書七冊」では日常や戦での心得、手紙やお酒に関する作法など、あらゆる事柄についてまとめられているのだが、そこには「時宜(じぎ)によるべし」と多く書かれている。形だけではなく、時・場所・状況に応じた自然な行動をするようにという意味が含まれている。すなわち常に相手のことを慮り、TPOの的確な判断のもとに行動せよというものである。こうしたことは一朝一夕になし得ないこと。「礼法」とは単に形式化されたものではなく、反復して訓練しなければ習得しえない。しかし、身につくとおのずと自然で品格のある立ち居振る舞いや言葉遣いが表れて来るもの、身も心も美しく変化する。

 「身も心も美しくなる」という言葉は、私にとって京都という場所とも重なる。今は亡き祖母との幼い頃の思い出が多いから、ということもあるかもしれないが特別で大切な地だ。好きな寺院などを周ると気持がゆったりとする。そして身も心も新鮮になる感覚が体内に満ち溢れてくるのが自分でわかる。京都という地が持つ、懐の深さや静謐な雰囲気は、「礼法」における「無心」と通じる部分があるのかもしれない。
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小笠原流 上巳の節供床飾 [撮影:鈴木直人]
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情報工房 2010-02-03T14:25:00+09:00
Vol. 17 「京都の都市格を高めよう」柏原 康夫 http://www.coconkarasuma.com/column/column17.html
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柏原 康夫/京都銀行 取締役頭取
1939年生まれ、兵庫県出身。滋賀大学経済学部卒。1963年に京都銀行に入行、営業企画部長、営業開発部長、取締役人事部長、副頭取を経て1998年より現職に。
現在、社団法人 京都銀行協会会長、京都商工会議所副会頭、社団法人 京都府観光連盟会長、社団法人 京都市観光協会会長、公益社団法人 京都モデルフォレスト協会理事長なども兼任している。
 ―ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。

よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまるためしなし―

 鴨長明が著した「方丈記」の冒頭にて『移ろう世の儚さ』や『諸行無常』を詠んだ一節。企業経営においてもそうだが、予測できない様々な事が次々と起こり変遷していく世の中において、築き上げたものを存続させることは相当に難しい。地域文化においても同様で、「伝統文化」と呼ぶに至るまで高めていくことは、並大抵なことではなしえないことだ。
 世界に誇れる伝統文化を持つ都市“千年の都”京都の素晴らしさには、私自身とても感心させられる。「山紫水明の地」と呼ぶにふさわしい自然や歴史建造物は、もちろん魅力を構成する要素のひとつであり、素晴らしい観光資源である。しかし、さらに付け加えたいのは学術面でのレベルの高さだ。京都には大学が多く、優秀な研究者も数多く輩出している。都市をあげて「知」に重きを置いているからこそ、京都の文化は守られているのだと思う。京都に来る修学旅行生は多いが、その中で大学に訪れる学校は少ない。大学の素晴らしさ、「知」の素晴らしさを、若い時に肌で感じて欲しいと考えている。このように様々な面から京都を知り、楽しむことの蓄積によって、また大人になって改めて訪れた時に京文化の深さを感じ、京都をさらに愛していただけるのではないだろうか。
 また、さらにアピールしたい京都の魅力は、「歴史」「自然」「学術」など、あらゆる面でこれほどレベルの高い文化が人々の生活に根付いていることだ。つまり、日常の暮らしそのものによって高い文化レベルを維持できるということであり、表層的でない本当の魅力があるということ。「京都に来れば、何かがある」常にそう思わせることができる場所なのだ。
 しかし一方で、現代都市としての京都のレベルも高めなければならない。伝統都市という面に加え、現在における京都の「都市格」の素晴らしさをアピールすることも大切なことだ。その鍵は烏丸通が握っているのではないだろうか。京都の活き活きとしたビジネスのシンボルとなりえる場所であるからだ。京都らしく「都市格」を高めるためには、自然とビジネスを調和させることが重要になると思う。道路に植樹をするなど、様々な方法があるはずだ。また、四条烏丸の交差点付近にある「COCON KARASUMA」には烏丸通をより活性化していただきたいと思っている。そのためには「COCONに行けば良い物が揃っている」「COCONのお店はレベルが高い」と、さらにお客様に思っていただくことが重要で「ビル格」を高めていく事が必要だ。今後のCOCON KARASUMAにとても期待している。
「地元密着」。西京極スタジアムにて、京都サンガF.C.を応援する柏原頭取
「地元密着」。西京極スタジアムにて、京都サンガF.C.を応援する柏原頭取
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情報工房 2009-12-16T00:00:00+09:00
Vol. 16「ゆるやかに流れる時間」和紗 http://www.coconkarasuma.com/column/column16.html
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和紗/シンガーソングライター
1989年(平成元年)京都市生まれ。幼少期よりドラムをプレイする日本人の父と長唄や三味線を演ずる母の影響で、歌や音楽に親しむ。2006年より作詞・作曲活動とバンド活動を始める。2007年にソニーミュージックに応募したデモテープが本選に進めず埋もれていた箱の中から見出され、中島美嘉やCHEMISTRYなどの楽曲を手がけた川口大輔氏の目に留まり、音楽的交流や共作がスタート。2008年には島村楽器主催のオーディション「HOTLINE2008」で全国2500組の中でグランプリを獲得した。インディーズ時代はストリートライブで多くの人の足を止める“トラフィック・ストッパー”として名を馳せる。2009年7月1日、10代最後の日に先行配信楽曲「アイタクテ」でメジャーデビューを果たす。11月18日には同曲を新たに歌い、アレンジした「アイタクテ ~winter tears~」を配信した。
 京都は私にとって、とても恋しく愛しい場所だ。今年(2009年)の9月にCOCON烏丸からも程近い烏丸御池の新風館で1000人が集まってくれたライブがあったのだが、お客さんやスタッフの皆さんと共に作り出された心地良い空気の中、自分の原点はこの地にあるのだと改めて感じられた。
 私が歌手を目指したのは高校1年生のときだった。友達から「歌手を目指すのであれば、とりあえず行ってみたら?」と紹介され、京都市内のコミュニティセンターに通うようになった。まだ歌手を目指したばかりの私だったが、センターの方は気軽にスタジオを貸してくださり、楽器まで教えていただいた。同じ夢を目指す友達との出逢いも増え、通うごとに歌や音楽への想いは強くなり、本気で歌手になろうと考えるようになった。まさに「歌手としての私を生み、育ててくれた」のが、市内のコミュニティーセンターだったのだ。当時お世話になったセンターの方は私にとっての特別な「恩師」と呼ぶべき存在で、オーディション(島村楽器主催)のときには育ててくださった恩返しとして、優勝という結果を“努力と感謝の結晶”として是非プレゼントしたかった。結果を報告した際に「ありがとう」と答えていただいたときは、言葉にできない感動、そして改めて感謝してもし尽くせない気持ちになった。
 歌や音楽は、人と人との温かい“つながり”だと思う。もともと人前で歌うのが好きであったが、ライブなどで自分の歌でお客さんが涙を流している姿などを見ると、ただ「自分の歌を聴いてほしい」という気持ちだけで歌があるわけではない、と思うようになっていった。私と聴いてくれる人がつながっていて音楽が成り立っていると思うのだ。歌詞やメロディを作るときも、身近な友達の未来や恋に対する気持ちを自分の気持ちや経験と照らし合わせていることがよくある。それは、私と友達がつながっているからこそ生まれてくるものだ。これからも、つながっている人とのつながる想いによって、日々私も歌も影響され、変わっていくのだと思う。
また歌や音楽は、“魔法”のようなものでもあると思う。聴く人を様々な別世界へ連れていってくれる、とても不思議なもの。私の歌手としての理想は、お客さんが歌を聴いている間だけでも日常や時間をフッと忘れ、聴いた後にほんの少しでも何かに踏み出すきっかけとなり、溢れる気持ちを自然にすっきりとさせるきっかけとなる存在になることだ。
今年、メジャーデビューしてから色々な場所を訪れるようになった。そこで初めて、京都という場所は時間の流れが他の場所と違うように感じられた。ゆったりと、ゆるやかに時間が流れている。歌詞を作るときなど集中したいときは、落ち着いた環境の方が良い。家の近くのカフェに行ったり、烏丸通沿いのお店に行ったりしている。COCON烏丸は、大人な雰囲気があり、しっとりと落ち着ける場所だと感じていた。これまで大勢で騒いで遊ぶというよりも、映画や食事など友達2、3人で来ることが多かった。これからは1人でも、また来たいと思う。
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情報工房 2009-11-20T12:32:24+09:00
Vol. 15「京都は、毎日がプレゼント」ウィスット・ポンニミット http://www.coconkarasuma.com/column/column15.html
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ウィスット・ポンニミット(通称:タムくん)/マンガ家、アーティスト
1976年タイ生まれ。「タム」はニックネーム。タイの東京芸大と呼ばれるシラパコーン大学デコラティブ・アート学部卒。1988年マンガ家デビュー。京都精華大学マンガ学部の研究生としての留学経験もある。日本では雑誌『IKKI』『Bigissue』『H』やweb『レンザブロー』で連載中。よしもとばなな著『なんくるない』の表紙イラストや,細野晴臣トリビュートアルバム『STRANGESONG BOOK-Tribute to Haruomi Hosono 2』におけるジャケットイラスト・DVD映像を担当するなど、いま最も注目を集めるマンガ家/アーティストのひとり。
10月26日に京都国際マンガミュージアムにて、親交の深い谷川俊太郎氏とのコラボレーション・イベント「詩とアニメ」を開催。またCOCON烏丸内でもshin-biにて10月30日から11月29日まで新作映像展示「LR展」を開催している。
 京都は私にとって多くの縁がある場所だ。日本語学校も、その学校の修学旅行も、またマンガ学科の研究生として通っていた大学も、京都。人生で初めて訪れた展覧会も(四条)河原町付近だった。京都は日本に来る前に雑誌で見ていたイメージと一緒で、とても感動したのを覚えている。
 今、京都からイメージされるのは「自然」や「平和」。川や木をはじめ、自然の大きなパワーを感じる。建物は写真のようで美しく、食べ物にも深さがある。人はその住んでいる場所と同じ、そこの食べ物と同じ、建物のデザインも同じだと思うが、京都の人の印象も土地柄そのままで、優しくてデリケートだ。そんな魅力的な京都に居ることはとても有り難く、毎日がプレゼントであるように思う。
 また、京都は自然・心・建物のバランスがドラマティックにとられていて“感じることを忘れてしまいそうになる”自分にとって、大切な場所でもある。(京都精華大学が運営する)「shin-bi」が入っているCOCON烏丸には来る機会も多いが、自然の音がする1階カフェのあたりのスペース(アトリウム)は広くて気持ち良い。なんだか落ち着く雰囲気があり、この場所(施設)にも京都ならではの良さを感じる。
 京都精華大学にはマンガ学科の研究生として通っていた。教授の部屋の本棚には、本だけではなくマンガが多く並んでいたのには驚いたし、嬉しかった。「マンガの国に来た」とワクワクしたのを覚えている。私は小学生の頃から日本のマンガを読んでいた。仲のよい友達と日本の好きなマンガをまねしてキャラクターを勝手に作り、ストーリーを考え、見せ合ったりしていた。たとえば“筋肉ムキムキのキャラクターがサッカーをやる”ような。遊び感覚だったけれど、それだけ日本のマンガに夢中になっていたのだと思う。
 再びマンガの世界に入ったのは大学生の時。タイの美術大学ではインテリアを勉強していたのだが、教授に怒られる事が多くてアートに対する自分自身への自信も無くなっていた時期があった。しかし勉強とは別に、その頃に自分が思っていたことを日記のようにマンガで描いた。誰かに見せるためと言うよりは、自分で描き、それらを読みたいだけだったと思う。思っていることを自由に描けて楽しかった。描いているうちに自然に、自分で本のようなものを作った。たまたま友達に見せたら「すごく面白い」と言われ、嬉しかった。
 それをきっかけにいろんな人に見せていたら、たまたまカルチャー雑誌に連載しているマンガが急に間に合わないことがあり、私のマンガを載せていただけることになった。初めて私のマンガが雑誌に掲載されたのがその時だ。「面白い」って言ってくれる人が増え、雑誌で私のマンガが連載されるようになった。当時は、今のように多くの人に読んでもらえるとはまったく思っていなかったので、今みなさんが真剣に私のマンガを読んでくれることがとても嬉しい。
 時々マンガを描きながら、自分でドキドキしたり、泣きそうになったりする。「この話を見せたら『面白い』と言われそうだなと思う瞬間はとても幸せである。また、自分が楽しいと思うマンガで生活できることの喜びは何事にも変え難い。自分にとってマンガとは?それは「楽しさ」と「幸せ」だ。
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情報工房 2009-10-21T11:52:48+09:00
Vol. 14 「落ち着いてプレーできる場所」柳沢敦 http://www.coconkarasuma.com/column/column14.html
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柳沢敦/プロサッカー選手 京都サンガF.C. フォワード
1977年5月27日、富山県生まれ。小学校1年生のときに、サッカーを始める。富山第一高時代には1993、95年の全国高校選手権に出場し、活躍。3年連続で高校総体にも出場した。
1996年に鹿島アントラーズに入団。同年8月にJリーグ初出場を果たした。2003年6月からイタリアセリエAのサンプドリア、04年6月から同リーグF.C.メッシーナに在籍。2006年鹿島アントラーズに復帰した後、08年には京都サンガF.C.に移籍。同季に日本人最多得点である14点をマーク。オフ・ザ・ボールの動きに定評があり、高い技術とスピードは日本随一。
背番号13。
 鹿島アントラーズから京都サンガF.C.に移籍する時、何の不安も無かった。移籍のきっかけになったのは加藤久監督や秋田豊コーチから声をかけていただいたこと。サッカーを続けてきた中でとても信頼できる二人からの誘いだったので、安心してサッカーに集中できると考えた。
 フロント、監督、コーチそしてチームメイトとの「信頼関係」というのは選手にとって非常に大切なことだ。信頼されているということは精神的な支えのようなもので、自分にとって「落ち着き」をもたらしてくれる。チームメイトを活かすための広い視野、相手ディフェンダーとの緻密なかけひき、パスやシュートの正確性etc…。これらは冷静で落ち着いているからこそ、プレーとして表現できる。信頼の分だけ結果を出さなければならないというプレッシャーもあるが、それ以上に良い方向に影響するものだと思っている。サンガというチームは信頼関係が強く、全員が「共に戦っている」というチーム、ファミリーのようなチームであると感じている。サンガに移籍できたことは、とても幸せなことだったと思う。
 京都に引っ越すことについても、ネガティブな要素は無かった。自分は富山出身なので、両親や地元の友人達が「京都は近いから、これまで以上にスタジアムに応援に行ける」と喜んでくれたのはとても嬉しかった。今、妻と共に住んで約1年半になる。どこに何があるかが解ってきて愛着を感じるようになり、少しずつ京都に身体が馴染んできた気がするが、同時に京都の奥深さも感じている。雑誌やエリアマップなどでは紹介されなくとも魅力的な場所がたくさんある。また山・河・緑がどこにいても見渡せ、いつも自然を感じることができる。魅力に満ち、心を穏やかに落ち着かせてくれる京都は、地域全体がスピリチュアル・スポットであるように感じる。
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 COCON烏丸は、今回のイベント(8月9日(日)のトークショー&サイン会)の開催会場となったが、京都に住み始めて間もない頃からよく遊びに来ていた。上品でお洒落な印象があり、レストラン・ショップ・映画館が揃い、興味深いものが多いので気に入っている。今も休日にはたまに立ち寄っている場所だ。先日、加藤久監督と「老香港酒家京都」で一緒に食事をする機会があり「選手集めてまた来よう」という話になった。チームメイトとまた遊びに来られる日を、今から楽しみにしている。
 京都サンガF.C.は、歴史を大切にする京都という地域に本拠地を置いている。これからサンガは「サッカーの歴史」をこの地に刻み、根付かせ、京都の人にもっと愛していただけるようにしなければならないと思っている。そのためには自分自身含め、選手が魅力的なプレーをファンやサポーターに見せ、チーム自体も良い結果を残して盛り上げていかなければならない。ひとりでも多くの方にスタジアムへ足を運んでいただき、サッカーの魅力、サンガの魅力を直に感じていただけるよう、これからも頑張っていきたい。
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情報工房 2009-09-02T00:00:00+09:00
Vol. 13 「世界に誇れる、マンガと京都の文化」竹宮惠子 http://www.coconkarasuma.com/column/column13.html
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竹宮惠子/マンガ家・京都精華大学マンガ学部長
1950年徳島県徳島市生まれ。17歳のとき、集英社「マーガレット」の新人賞に佳作入選、デビューを果たす。同じ頃「COM」の月例新人賞を受賞。徳島大学在学中、小学館「週刊少女コミック」に『森の子トール』を連載開始。
代表作には『地球へ…』『風と木の詩』『イズァローン伝説』などがあり、1980年には『地球へ…』が劇場版アニメ化される。2000年4月より京都精華大学芸術学部(現・マンガ学部) マンガ学科の専任教授に就任。2008年には学部長に就任。2000年秋より毎年、京都・東京にて原画展示の個展を開催している。
また、大学での研究として「原画’」を発表。2003年より各作家さんに広く呼びかけ「原画’展」を毎夏、企画開催。貴重な原画の保存・公開に務めている。
 私が京都に来たのは今から約10年前、牧野圭一先生(京都精華大学マンガ学部前学部長)に声をかけていただいたことがきっかけである。私の作品にファッションブランド・エルメスの約160年にわたる歴史をマンガ化した「エルメスの道」があるのだが、同書を見て「自分の主張するメッセージを描くだけでなく、他者の物語を上手く伝えることのできるマンガ家は、きっと教えるのに適したタイプの人間」と感じていただけたとのことだった。ストーリーマンガを教えるコースが京都精華大にできた際には是非来て欲しい、と言っていただいた。私は小学生のころから教えることが好きで、自分の知っていることを人に伝えたいという衝動が強く、グループ学習などが大好きだった。だが、さすがにマンガは教えることは出来まいと思っていた。それが今こうしてマンガを教える場所ができたことは思いがけなくも夢が叶ったというものだ。
 京都で教えている、ということについても嬉しさを感じている。とても居心地が良い場所だ。雅な雰囲気や言葉遣いの柔らかさが似ているからなのか、生まれ故郷の徳島とどこか通じているところがあるように感じる。また京都という地域は街の中に河が通り、すぐ近くには里山がある。自然を身体で感じられる場所にいるということは、心の中にある原始的なものが呼び起こされ、非常に幸せなことである。このような場所こそ子供たちにとって、本来の人間教育に適しているのだ思う。私は子供の頃、流れる川を眺めているだけで様々な好奇心が沸いたものだ。「中州の形はいつも変わっている」「鷺には色々な種類がある」etc…いろいろなことに想いを馳せる事が楽しかった。京都に住む子供たちは幸せだ、と心から思う。
 とはいえ、私には今も様々な好奇心が詰まっている。いったん興味をもったら、いつまでも興味を持ち続け、例えば宇宙科学について様々な視点からいつのまにか深く調べるようになる。すると、ふと生活との結びつきが見えてくる。自分の知識がストーリー化される。そうなると伝えずにはいられない。描かずにはいられない。そして「自分が気づいたこと」を伝えなければと思う。マンガという媒体はドキュメンタリーと違い、極端な設定でストーリーをリアルに描くことができる。そして極端な設定の中でこそ、真理を見せることができると思う。読者も事実じゃない、とわかっているから楽しめる。そして真理を読み込もうとしてくれるのだと思う。
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 日本はストーリーマンガの歴史が深く、今やとても日本人にとって身近な存在となった。そして豊かな情報がぎっしりと詰まっている日本の素晴らしいマンガは世界に発信され、ヨーロッパやアメリカなど外国の方も愛してくれるようになっている。ここ3、4年で日本のひとつの文化として定着してきたように感じる。非常に喜ばしいことだと思う。
 マンガと京都の魅力は「アナログ感」があるという点で通じている。マンガは人の手で描かれた肉感的な部分があり、京都という場所は伝統・歴史を重んじて「残す」ことを大切にしている。京都国際マンガミュージアムも昭和4年建造の小学校校舎の佇まいを残しつつ、新しくアレンジして作られた。COCON烏丸も古くからのビルを再生して作られたとのこと。緑色のファサードが目立っていてとても見つけやすく、先生方との待ち合わせ場所として使いそのまま地下で一緒に食事を楽しむことが時折あるのだが、こうした「アナログ感」ただよう施設だからこそ、ひときわ存在感を放っていたのかも知れない。
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情報工房 2009-08-05T13:00:48+09:00
Vol. 12 「心を震わせる出逢い、心を和ませる京都」奥野史子 http://www.coconkarasuma.com/column/column12.html
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奥野史子/バルセロナ五輪 シンクロナイズドスイミング・銅メダリスト
1972年京都市生まれ。同志社大学大学院修了。シンクロナイズドスイミング選手として1992年 バルセロナ五輪で銅メダル、1994年 世界水泳選手権ローマ大会では日本人ソロ初の銀メダルを獲得した。1995年に現役を引退。2000年より2002年12月まではシルクドソレイユに所属。ラスベガスで最高峰の「O」(オー)に出演を果たした。
その後スポーツコメンテーターとしての活動の他、京都市教育委員会委員、文科省中央教育審議会の委員なども務めている。
2002年に朝原宣治氏(北京五輪陸上短距離銅メダリスト)と結婚。現在、二児の母。
 私がシンクロナイズドスイミングと出逢ったのは小学生低学年の時だった。姉二人の影響で始めて「京都踏水会」で習っていたのだが、当時は日本でそれほど人気がなかった。というよりも、認知すらされていない頃だ。しかし、一人の女性との出逢いによって私はシンクロナイズドスイミングに入れ込むことになる。その女性は、初めてシンクロが正式種目となったロサンゼルス五輪の金メダリスト、トレーシー・ルイツ。彼女は1週間京都に滞在してコーチをしてくださったのだが、彼女の泳ぎを見た瞬間、桁違いの魅力に“心が震える”想いをした。「本物」を見た素晴らしさでシンクロの虜となり、世界を目指す心が芽生えたのを、今も覚えている。私は「どれだけ素晴らしい出逢いが増やせるか」が人生の醍醐味だと思っているが、その一歩が彼女だったのではないだろうか。
 小学校高学年になると、その後長い付き合いとなる井村雅代コーチと出逢った。的を射たコーチングはまるで魔法のようで、それまで絶対にできないと思っていたようなことが、ちょっとしたアドバイスでできるようになったのには驚かされた。また彼女は妥協を絶対に許さない厳しい先生でもあった。先生と出逢ってからはとにかく四六時中シンクロのことだけ。それ以外のことを考える余裕も体力も残っていなかった。「泳ぐ、食べる、寝る」。私の青春時代の全てがシンクロだった。しかし先生に育てていただいたことで、幸せな青春時代を送ることができた、と思う。時を経たからこそ思えるのかもしれないが、「要らないことを考えないことで、健全な精神が作られ、核となる自分が作られること」、「優しく振舞うより、厳しく育てることの方が大変であり、大切だということ」、「ぶつかることで人と人との信頼感が強くなっていくこと」教育に必要な要素が、多く詰まっていたことに気づく。母として子を育て、また京都教育委員会委員を務めさせていただいている現在、井村先生の「教えることの凄さ」を心から感じることができる。
 オリンピックに出たのは19歳だった。バルセロナで銅メダルを獲得したのだが、背負うものの多さと重さに対して、とことん戦った期間であった。ロサンゼルスから獲り続けてきたメダルを、途切れさせてはいけない重圧。日本を代表している、候補選手から選ばれているからこそ、失敗できないプレッシャー。絶対にメダルを逃せない、と必死だった。負けず嫌いな性格が幸いしたのかもしれないが、それらを乗り越えたバルセロナでの経験がその後何をするにも怯むことのない、自信のようなものを植えつけてくれたのだと思う。
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 私は人と出逢い、そして挑戦することによって“心を震わせる”経験をいくつも重ねることができた。だからこそこれからも何事も楽しみ、心を震わせて、生きていきたいと思う。また、私は朝原宣治の「妻」であり、そして二児の「母」でもあり、家族と共に生きて感動を共有している。自分はとても幸せ者だと感じている。京都という住処も、幸せを形作るひとつのピースだ。京都人のDNAなのか、自分の子供は自分の生まれた場所で育てたいという気持ちがあって、東京から京都に戻ってきた。何より京都は居るだけで気持ちがほっこりとする。
 COCON烏丸にもたまに遊びに来ている。大人な雰囲気で、落ち着いた気持ちでショッピンクできるのが良いと思う。大人も子供も、家族みんなが楽しめる場所になればよいと、この先も楽しみにしている。
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【メディア情報】
MBSラジオ「上泉雄一のええなぁ!」火曜レギュラー。
讀賣テレビ「ウェークアップ!ぷらす」「ミヤネ屋」、NHK「おしゃれ工房」「産地直送たべもの一直線」、NHKラジオ「関西土曜ほっとタイム」等レギュラーコメンテーターとして出演中(不定期)。
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情報工房 2009-07-03T19:07:53+09:00
Vol. 11 「京野菜で、世界平和を」棚橋俊夫 http://www.coconkarasuma.com/column/column11.html
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棚橋俊夫/是食キュリナリーインスティテュート
1960年、熊本県生まれ。筑波大学で農業経済学を専攻。「哲学は机の上ではなく生活の中にある」ことを学び、料理の世界で実践することを志す。27歳から3年間、滋賀県大津市の禅寺「月心寺」の村瀬明道尼のもとで修行。1992年、表参道に精進料理の店「月心居」を開く。著書に「野菜は天才・SHŌJIN」(文化出版局)、「野菜の力 精進の時代」(河出書房新社)がある。これまで「和樂」や「AERA」をはじめとする雑誌、The New York Times(米国)、The Sunday Times(英国)、The Japan Times、The Financial Times、Telegraph Magazine、朝日新聞等に記事が掲載される。2007年12月、信念を全うすべく、15年をもって「月心居」閉店。
2008年2月、「是食(ぜくう)キュリナリーインスティテュート」を立ち上げ、「21世紀は野菜の時代」と信じ、精進料理をとおして、野菜の素晴らしさや心身共に豊かな生活を提案するため、国内外で意欲的な活動を続けている。2009年4月より京都造形芸術大学にて「食藝プログラム」の教鞭をとる。

 五感すべてで楽しめる料理や食の世界。それは瞬間で姿が消えるが、いつまでも印象に残る、刹那的ドラマでもある。「人と人」の一期一会は「人と素材」にも通じ、命をつないでくれる食材に感謝の気持が湧く。

 私は肉、魚もいただくが、何よりも野菜を好む。大げさに聞こえるかもしれないが、野菜や果物は人類にとって、神、仏と同じ奇蹟の賜物と信じている。植物は水、空気、お日さんで野菜や果物を作るが、我々は「トマトひとつ、よう作れない」のである。

 我々ができないことをやってのける植物は、さらに苦を受けながらも黙って喜びを与え続ける。春は芽のもの、夏秋には実のもの、冬には根のもの、さらに一年を通して葉のものと、全身全霊で飽きさせず、絶やさず我々の命をつないでくれる。それこそ、最も現実的で最も身近で尊い、偶像ではない生の神、仏ではないだろうか。簡単に言えば植物なくしては人間も動物も生きてはいけないのである。真の神、仏は我々の命と一体であり、今、息できるのも彼らのおかげである。

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 木にふれたり、新緑が目に映ったり、精神的にもどれほど癒されているかわからない。ガーデニングや畑作業で土いじりするとストレスが解消される。植物に触れ、土に戯れることが心地よいのは我々の遺伝子の中にしっかり記憶されているからであろう。心や体が病んでいる人が急増している。植物に向き合い、その恩恵をたっぷり頂くことが回復への大きな力になるはずだ。

 京都は幸いにも緑の山々に囲まれ、清らかな水が流れ、気が澄んでいる。この豊かな土地で育まれた野菜たちは古来、お百姓さんの努力と人々の高いセンスによって高品質のものを作り上げてきた。
 暑い時期には「とうがらし」がよく出回る。一般的には辛いだけの赤いとうがらしを連想するが、京都では緑色の大ぶりの甘とうがらし。焼いたり、揚げたり、煮たり、ビールをぐっとやれば、口中が爽やかになる。万願寺、伏見、田中、山科、鷹ヶ峰。これらはみな、とうがらしの種類であり、産地の地名から名付けられている。形、大きさ、時期、味が異なり、その土地ならではの産物となっている。狭い京都の中で、これほどの種類のとうがらしが区別して食されることに驚かされる。


 最近では名ばかりの京野菜が全国に出回っているが、それだけ古くから京都には野菜文化が発達した証でもある。まさに京ブランド。京都の人たちに愛され、生活の中に根付いた野菜文化。例えば、夏越の祓、6月30日に小豆の入った三角形の餅、水無月を頂き、冬至には南京を食べ柚子風呂に入る。今でも季節に敏感で、食いしん坊も手伝って伝統を守り、若い人たちに受け継がれる様子はうらやましく、かつ京都の奥深さや重さを感じる。

 また、京都を訪れる度に感じるのは「上質で上品な雰囲気漂う、京都のオリジナリティ」が、常にあるということだ。古きよきものを生かしつつイノベーションしているから、そこには変わらぬ価値がある。私はそこに「お洒落」を感じる。例えばCOCON KARASUMAもそのひとつだが、烏丸通の建造物やお店には、古い建物を生かしながら再設計しているものが多い。烏丸通は元々ビジネスの中心ではあったが、最近では伝統を生かしながら洗練された要素も加わり、京都からの文化発信の中心にもなっているのではないだろうか。

 さて今、私は京都造形芸術大学で「食藝」の授業を行っている。「食」についてイマジネーションを働かせ、クリエーションをもたらす授業だ。頭でなく体で感じ、身についていったものが文化である。授業では座学だけでなく様々なことを体験しながら五感で学んでもらう、まさに、おいしい授業を目指している。是非、若い人たちにも、食がもたらす無限の可能性を感じてもらいたい。

 60兆個の細胞から成る人間が、世界全体で約70億人いる。我々にはその細胞ひとつひとつが喜ぶ食をつくる使命があると考えている。私は周りにいる皆様と共に、時にはご指導いただきながら、食が平和をもたらす日を、そしてその発信基地が作れる日を、いつも夢見ている。京都にはその地盤とヒントがたくさんある。



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情報工房 2009-05-15T15:23:30+09:00
Vol. 10 「心を揺さぶる、京都と能の魅力」金剛 育子 http://www.coconkarasuma.com/column/column10.html
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金剛育子/能楽金剛流宗家夫人
東京都生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。1977年、能楽金剛流宗家 金剛永謹氏と結婚。
1988年から2004年まで、京都府教育委員会委員を務めた。現在、(財)金剛能楽堂財団評議員、(財)京都市景観まちづくりセンター理事など、様々な役職を持つ。
2003年に京都御所西向かいに移転、新築された金剛能楽堂の運営などを通じて、後方より能楽の普及に尽力。

 京都には人の心を癒し、揺り動かし、感動させる魅力がいたるところにある。喜びの時、悲しみの時、その時々に人の心をその大きな懐で深く包み込み、人は自らの心と静かに向き合うことが出来る。

 しかし、それらの魅力は一朝一夕には成し得ないもの。先人がひたすら守り続け、かつ新たなものを創造し続けてきた想いの集積によってつくりあげられてきた。古典芸能である能にも同じことがいえるが、伝統や一つの“道”は、ひとたび絶たれたら無くなってしまう。永い歴史の中で、頑なまでに守られ続け、さらにその時代ごとの新しい息吹を取り入れてきたからこそ、京都は他には無い輝きを持つ。
 百三十年余りの歳月を経た能舞台を移築して、金剛能楽堂が京都御所の西向かいに移転してから早や五年。能楽堂の門の前に立つと、烏丸通りを隔てて御苑の緑が目に眩しい。早春には梅が可憐な蕾を膨らませ、やがて春爛漫の桜の季節を迎える。近衛邸跡の枝垂れ桜の見事さ。秋には陽の光を浴びて黄金色に輝く銀杏の大木や、微妙なグラデーションを醸し出す紅葉の数々など、四季折々の御苑の美しさは思わず息を飲むほどだ。先日も京都御所の屋根の上にかかる満月に足を止めてしばし眺め入った。夜空に黒くくっきりと浮かび上がる屋根との取り合わせが一幅の絵を思わせ、まるで平安時代にタイムスリップしたかのようで、かの昔、宮廷の人々もこのような光景を眺めていたのであろうと想像は膨らんでいく。歴史的景観と自然美の調和こそが、古来より今日まで日本人の美意識をかきたてて止まない京都ならではの魅力なのだろう。
 一方で、伝統に培われた魅力と同様に、時代と共に変化する魅力もある。烏丸通りはその象徴だと思う。最近通りの雰囲気が変わってきたとよく耳にする。古い建造物を現代に合ったものに改造して再生させるなど、古(いにしえ)のものと今のものがほどよく融合し、若い人のみならず大人も楽しめるようになった。COCON KARASUMAはその先駆けだったように思う。入口の唐長文様「天平大雲」は斬新なデザインで、未来への可能性を感じさせる。私も折にふれて立ち寄る事が多く、ショッピングからレストランでの食事まで家族でCOCON KARASUMAを満喫している。
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 時代が移り変わり、どんなに科学が発達しても人の心は古今東西変わらない。愛する喜びや、嫉妬や執心の苦悩、離別の悲しみなどどうすることもできない人類の永遠のテーマでもある。能は人の心を六百年以上にわたり綿々と描きつづけてきた。能を観る時、無意識のうちに人は自己の魂と対話している。いぶし銀のような魅力を秘めた京都の地でこそ能を観てほしいと願っている。
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情報工房 2009-04-07T00:00:00+09:00
Vol. 9 「京都に息づく家業のカタチ」千田 愛子 http://www.coconkarasuma.com/column/column09.html
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千田愛子/KIRA KARACHO
唐長11代目当主である千田堅吉の長女。夫であるトトアキヒコとともに、唐長を世界と後世に伝えるための活動をしている。当主自らが唐長のDNAとしての色感覚を一番受け継いでいると認める感性を活かし、現代の暮らしに合う唐紙の在り方やココン烏丸内ショップのKIRA KARACHOブランドのプロデュースを手がけている。
夢は、夫と共に、京都に唐長美術館をつくること。その準備段階として、唐長サルヤマサロンを夫婦でオープンし企画展を開催したり、他者とさまざまなコラボレーションを取り組んだりしている。今後は、夫婦で開催する展覧会なども京都内外で手がけつつ、唐長の美術性を伝え、唐長美術館への道のりを歩もうとしている。その道のりについて記している夫トトアキヒコのブログ: kira karacho

京都という土地は、私の五感を刺激する。
歴史に裏打ちされ洗練を重ね、今なお生き続ける文化の数々が身の回りにたくさんあることと、自然に囲まれたこの京都が大好きだ。
私は、文様と色の世界に身をおいて仕事をしていることもあり、道行く先々でさまざまな色が目にはいってくる。見渡せばいつでも自然が目に入ってくるし、歩いていても車に乗っていても、愛する自然の色が目に飛び込んでくる。山の木々が色づいてきたなぁと思いながら、空の色合いとのコントラストを楽しむ…そういう日常の風景が唐紙をつくるときに、色彩感覚として呼び覚まされるのである。
唐紙の美しさを感じる心は、日常のささやかな幸せを感じる心と相通じるものがあるのではないだろうかと思っている。
山も川も街も、見上げればひとつの空の世界のもと調和されている。
絶え間なく変化し続ける空…全てを包み込むその広大さに人々は守られているのだ。
唐長文様「天平大雲」に覆われたココン烏丸のファサードには、そんな願いもこめられている。

修学院で私が10年以上つづけてきた千田愛子の文様と色の世界を唐紙のカードや小物で伝えてきたものを、足の便の良い四条烏丸の場へ移した唐長の試みが2004年のこと。
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烏丸通から見た唐長文様「天平大雲」を用いたココン烏丸のファサード
現在、カードの他いろいろなギフト商品を展開しながら、唐長文化を伝えるための入口として役割を担っているのだが、この京都という土地とともに、私に大きな影響を与えてくれるのは公私ともパートナーである夫の存在が大きい。
彼の思想や感性の織りなす世界観は、私の世界観を大きく広げ可能性をもたらしてくれる。
私の唐紙づくりや発想にも影響を与え、とりわけ、精神性や詩的な感覚は、私にとって尊敬すべきところでもある。唐長においても、当主である父をのぞけば、別格とも言える感覚の持ち主であり、面白く、また、本人同士は決して認めないだろうが、娘の私から見て、どことなく父に似ているところが、なおさら面白いのだ。
近頃、そんな夫が、「星に願いを」という唐紙を額装したシリーズをつくりはじめた。昔、父から夫が譲り受けた作品で父独特の色使いと空気感を発しているものがある。
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夫はそれを家宝だと大事にしそれを毎日かかさず眺め続け、日々の中からいろんな父の言葉を拾い集め、ある日、機が熟したかのように、ふいに手がけはじめたものだ。実際のレクチャーを一度も受けることなどなかった夫のこの唐紙をはじめて見たときの驚きと感動を私は生涯忘れないだろう。
実際は、似て非なるものではあるが、父の存在がインスピレーションになっていることは事実であり、夫が手がけた唐紙が、彼の理想とする音なき音を醸し出す美しい心ある唐紙であることにも、まちがいない。
唐紙の美しさは、文様の世界観と物語、板木に潜む大切な先人たちの魂をうつしとってこそ、人に何かしら感動を与えるモノとして呼吸しはじめるのだ、と常日頃語っている夫は、400年連綿と続いてきた先人たちの魂と会話しつつ、現当主である父の背中を追いかけているのかもしれない…
こういう家業のカタチが、私にとっては、京都の象徴でもある。
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情報工房 2009-03-02T13:00:00+09:00
Vol. 8 「古(いにしえ)と今、そして未来をつなぎたい」神谷 雅子 http://www.coconkarasuma.com/column/column08.html
京都シネマ代表 神谷雅子
神谷雅子/(株)如月社 代表取締役、京都シネマ代表、立命館大学産業社会学部教授
1980年 立命館大学文学部卒業、1990年 京都朝日シネマ支配人、2003年1月 惜しまれつつも閉館(閉館を惜しむ署名全国から7,000人以上寄せられる)。同年3月如月社を設立、2004年12月 京都シネマをCOCON烏丸に開業。2004年立命館大学産業社会学部講師、2008年同教授。2005年度京都府あけぼの賞受賞。著書に「映画館ほど素敵な商売はない」

 COCON KARASUMAの前身、旧丸紅ビル。1938年に建てられた繊維商社の本社ビル。幸いにも戦火を免れ、敗戦後連合軍占領下でGHQの京都本部が置かれたビル。その名残は、ビルの床や、趣のある階段にしっかりと残っている。
 2002年12月。まだリノベーション(再生)後の構想が固まっていなかった肌寒かったあの日。このビルに初めて足を踏み入れた日のことを鮮明に覚えている。電気は当然ない。薄暗い中、懐中電灯を頼りに地下一階から屋上まで、歩いて、見て回った。地下には理髪室があった。厨房の名残もあった。2階、3階には、畳が敷かれた展示スペースのコーナーもあった。四条烏丸という京都の真ん中に、これから新しく生まれ変わろうとするこんなビルがあったのだという驚き。そして、この場所に映画館をつくりたい。ここでなら、必ず成功させられる。何としても、ここで、という強い思い。あの日の思いが、今の京都シネマの原点だ。
 京都の新しいランドマークとしての施設を作る、という方針のもと、いくつかの構想があり、いくつものハードルを乗り越え、アート系の市民に支持される映画館への期待を寄せられて、2004年12月4日開業。お客様に「また再会できてうれしい」「開業してくれてありがとう」と声をかけられた。歴史にifはないが、「京都朝日シネマ」閉館が別の時期だったら、残念ながら「京都シネマ」は存在していない。そんなこともふと思う。
 縁、出会い、その絶妙のタイミング。チャンスの神様は前髪しかない、と言われるが、それが“前髪”かどうか、判断できるのは、じつは掴んだ後だ。4年が過ぎ、あの時「ありがとう」と言われた言葉にふさわしい映画館であり続けられているかどうか、いつも自問自答している。
京都朝日シネマ
京都朝日シネマ
 京都は、110年前、日本で初めてシネマトグラフが試写実験された場所であり、今も、二つの撮影所を持ち、映画をつくり続けている映画都市だ。日本の、世界のあらゆる国の映画を上映するだけでなく、欲張りな企画をたくさんしてきた。学生映画の特集、関西で映画をつくり続けている人たちの作品上映、京都の音楽家とのコラボレーション、無声映画「瀧の白糸」(1937年)のオリジナル曲による演奏付き上映会、科学映画講座、映画づくりワークショップなどなど。ホワイエでは、映画関連商品以外にフェアトレード商品の販売も始めた。
 COCON KARASUMAの名前に込められた思い。「古今東西の様々な文化を横軸に、京都の歴史と伝統を縦軸に、人、文化がクロスする場所 烏丸」。
 これからも、その場所にふさわしい映画館であり続けたい。
「闇の子供たち」阪本順治監督舞台挨拶
「闇の子供たち」での阪本順治監督舞台挨拶
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情報工房 2008-11-15T17:00:00+09:00
Vol. 7 「創造のインスピレーションを与える町」 ジャン=ポール・オリヴィエ http://www.coconkarasuma.com/column/column07.html
ジャン=ポール・オリヴィエ
Jean-Paul OLLIVIER (ジャン=ポール・オリヴィエ)/関西日仏学館 館長、関西日仏交流会館 ヴィラ九条山 館長、京都フランス音楽アカデミー 実行委員長
1955年仏・ノルマンディー生まれ。79年フランス・経済財務省入省後、84年以降はフランス文化・通信省在職。国立パリ・オペラ座制作部長、国立ジョルジュ・ポンピドゥー芸術文化センター財務・法務部長、パリ国立近代美術館-産業創造センター取締役を歴任。ミラノ・フランス文化・言語・協力センター館長を経て、06年夏から現職。フランス文化・通信省(第一級アタシェ)、フランス外務省より出向中。フランス文化芸術勲章 オフィシエ章受勲。

2年前、関西日仏学館の館長に就任して初めて京都を訪れた。正直言って、最初はがっかりした。京都は町全体が美しい庭でできているとばかり思っていたのに、目に入るのはあまり美しいとは言い難い建物や道路、そして電線! それまで私が見た京都の写真にはそのようなものは一切写っていなかった。
ところが、時間が経つにつれ、この町では美しいものが背後に隠れていることに気がついた。京都には長い歴史と精神性があり、生活を美しく快適にする職人技へのこだわりがある。古い建物や風景や庭に美のインスピレーションが詰まっている。演劇やコンサートなどを楽しむには東京やパリの方が便利だが、私自身は京都での穏やかで静かな暮らしに最もハーモニーを感じる。賀茂川のあたりを散歩したり、円通寺の庭を見たり、行くたびにまるで違う印象を受ける銀閣寺を訪ねるのが好きだ。京都には一方で大きなハイテク企業や優秀な大学があり、必ずしも博物館化した町ではないところもよい。伝統的な美意識と共に、“未来”がある。
関西日仏学館
2003年にリニューアルした「関西日仏学館」
この京都の地にフランスからアーティストや研究者を招き、創作活動にふさわしい環境を提供しようと設立されたのが山科区にある関西日仏交流会館「ヴィラ九条山」だ。元々80年前に当時の駐日フランス大使ポール・クローデルが関西日仏学館を設立した場所なのだが、フランス語を普及する本拠地としては不便だということで、1936年に日仏学館は京大の近くへと移転し、長い間放置され廃墟となっていた。81年に取り壊し、アーティストのためのヴィラとして1992年に開館以来、音楽・造形美術・映像・文学など多彩な分野のアーティストや研究者たちが半年間滞在し、日本に関連した作品の創作に従事している。滞在中に日本人との交流を得て、帰国後再び京都に戻ってくる例も多い。
2008年10月17~26日に、COCON烏丸で日仏交流150周年および京都・パリ友情盟約締結50周年記念のイベントが開催され、フランスに注目が集まることをうれしく思う。デザインや職人の技、ラグジュアリーといったテーマは日仏共に伝統があり、ヴィラ九条山に滞在するアーティストの作品がハイクオリティな生活文化を提案するCOCON烏丸で紹介されるのはとても意義深い。フランスのアーティストが様々な人たちと触れ合うことにより、今後、日本とフランスが共同で作品を創るような新たな企画が生まれることを期待したい。
日仏交流150周年
「日仏交流150周年」のロゴ
右のQRコードを携帯で読み込むと「日仏交流150周年記念サイト」にアクセスできます。
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情報工房 2008-10-17T10:00:00+09:00
Vol. 6 「洛中・洛外・京都伏見」 増田 泉彦 http://www.coconkarasuma.com/column/column06.html
月の桂 増田泉彦
増田 泉彦/「月の桂」醸造元 (株)増田德兵衞商店 代表取締役社長
昭和30年、京都・伏見生まれ。大学卒業後、東京日本橋の酒類問屋に勤務。昭和56年、増田德兵衞商店入社、常務取締役就任。平成3年から現職。
平成4年から伏見の特定農家と契約し自ら田植え・稲刈りをして無農薬有機栽培米「祝」を育て「平安京」や「祝米・純米吟醸にごり酒」を発売。近年「抱腹絶倒」「吃驚仰天」などユニークな製品も発売している。
日本酒造組合中央会 理事・海外戦略委員長
伏見酒造組合 副理事長

大学を出て東京の酒問屋に5年ほど勤め、28歳で京都に戻ると「京都伝統産業青年会」からお誘いがあった。お酒も伝統産業の一環ですよと言われて、ひょこっと顔を出したのがツボにはまった。伝統産業といってもお酒とはあまり縁のない、織り、染め、焼物、木工、石材といった団体ばかりだった。もっと枠を広げていこうということになって、漬物とか、京菓子とか、京都の伝統野菜とか、そういう人たちを巻き込んでいった。帰ってきたばかりの私には、伝統産業に関わる方々にお会いできたのは、知ってるようで知らない私にとって京都の脈々とした人脈と繋がるきっかけになった。父の時代からのつながりも大切に、また新しい視点での広がりや、清酒を組み合わせての展開、後にパリでの茂山狂言の皆さんとの講演に酒は付き物とわざわざラベルまで創っていただいたご縁も、京都を中心としたワールドワイドな大きなつながりである。

酒造りでは水と米が欠かせない。伏見の銘水は言うまでもないが、極力京都の米と水で醸したいと、伏見で田植えをさせてもらって足掛け19年、今では御所の4倍の広さ約20ヘクタールにもなった。田んぼには全部井戸を掘って地下水で育てている。もちろん無農薬で。頑張り屋の農家と出会い、人も米も相性がいいのではとの思いからだが、はじめてみるとアグリカルチャーだけに文化であると、奥の深さに未だに毎年毎年が初心者で在ると、謙虚にお酒とお米の対話の絡みの妙なるを実感している。
ただ醸して造るだけじゃどこの蔵も同じである、何となくあそこのおやじがいるから買ってやろうとか、やはり酒は季節性と個性が一番と思っている。
この妙なこだわりは学生時代に遡る。フランスのワイン造りの連中から「畦道が1本違えばブドウの味が違う」と聞かされて、「くそっ、こいつらに負けたらいかん」と思った。ブルゴーニュの歴史はたかだか220年(フランス革命で一度なくなっている)、うちは350年続いているから、負けたらいかんと思った。おかげさまで今ではブルゴーニュやボルドーの連中が見学に来られたりするまでになった。
月の桂 酒蔵正面
京都で造って京都の人に飲んでもらうこだわりは京都人気質だろうか?(でも意外と京の人は京都ものはほめてくれない・・・・笑)

海外に日本酒を広めに行くと、商売の生業が京都にあってよかった、とつくづく感じる。全国に酒造メーカーが1,600社あるけれど、文化の味を表現するのに「KYOTO」の一言で通じるから。知名度もさることながら、音の響きが心地よく感じるのかも知れない。私は伏見の清酒のPRも兼ねて、グローバルに展開するにはこの「KYOTO」の音感と知名度が重要と思った。それで「伏見」の頭に「京都」を付けて「京都・伏見」でキャンペーンするように取り組んでいる。
ずっと伏見で暮らしていたので、市内に行くときは「ちょっと京都に行ってきます」と言って京都に行った。同じ京都でもこんな言い方が好きだった。四条河原町から烏丸界隈のいろんなものに出会えるワクワクするような感覚は今も変わらない。洛中・洛外で言えば、伏見や山科は洛外になるから、一種の憧れみたいなものだったようだ。
今年で4年目になるが、αステーションと新風館と組んで「α-Sake Bar」なるものをさせてもらっている。この場所は特に、若い女性に受けていて、日本酒の新しい出会いの場所として賑わいがある。烏丸通りは三条界隈が好みだが、残念に思うのはやはり、鉄筋でも古い建物が消えていくこと。木造とかレンガ造りとか、伝統的な造りの建屋が減っていくのは寂しい限りだ。まだまだ京都にしか出来ないことを、京都人の問題意識を益々研ぎ澄まし、COCONも温故知新の昔の名残をとどめていてくれればいいな、と洛外から洛中へ思いを馳せている。
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情報工房 2008-09-19T17:15:00+09:00
Vol. 5 「日本一の四条烏丸」畑 正高 http://www.coconkarasuma.com/column/column05.html
松栄堂社長 畑正高氏
畑 正高/(株)松栄堂 代表取締役社長
昭和29年 京都生まれ。大学卒業後、香老舗 松栄堂に入社。平成10年、同社代表取締役社長に就任。
香文化普及発展のため国内外での講演・文化活動にも意欲的に取り組む。平成16年ボストン日本協会よりセーヤー賞を受賞。 環境省 かおり環境部会委員、同志社女子大学非常勤講師などの公職も務める。
著書に「香三才」(東京書籍)、関連書籍として「香千載」(光村推古書院)などがある。

 京都の金融街として親しまれている四条烏丸。京都の地図を広げると、市街地の中央に位置する十字交差点。金融街として活力のある日々を送ると同時に、商店街の入り口としても親しまれている。近くには、京の台所・錦市場や繊維問屋街で有名な室町も控え、この界隈の賑わいは京都の活力のバロメーターと言って過言では無い。
 日頃は実に煩雑なこの交差点が、一年に一度だけ空気を改め特別の朝を迎える。7月17日午前9時、あの祇園祭の山鉾巡行はこの交差点から出発する。平成20年のその朝は、歴史に残る快晴だった。東にまっすぐ伸びる四条通の彼方には、東山を背にして八坂神社のお社が遠望できる。日本一の朝日は、その社殿の上から、山鉾巡行を待つ人々の中に盛夏の陽射しを射し込んでいた。
 昨夜まで、数日間続く宵山に連日数十万人の人出があって、祭りの興奮は高潮している。しかし、この朝を迎えると人々のまなざしは一変して、街は静粛な緊張感を迎える。幸せなことに、私は満十歳の時からこのお祭りに縁を得て、四十数年間、毎年のようにこの清々しい朝を仲間とともに迎えてきた。
 私は、祭礼の先頭を行く長刀鉾の囃子方として笛を吹いている。子どものときに鉦方に参加して、24歳の時、笛方に転じた。わが囃子方は80名ほど。小学校の子供から70歳代の長老まで、日常の仕事などまったく無関係に一切の利害関係もなく、ただ祭囃子のためだけに毎年みんなが参集してくる。年齢の序列に対する意識にはとても厳しいけじめがあって、それが自然と各自の胸の中に責任感や誇りを育んでいる。長刀鉾の上にはおおよそ45人ほどのメンバーが乗り込む。他に稚児の関係が10数名。8畳ほどの空間は、蒸し風呂と化す。左右の欄縁が囃子方の席で、それぞれに9名ずつ半身を外へ乗り出すように腰を掛ける。その左側一番先頭は、笛方の中堅リーダーが務める席。私たちの吹く能管は両手を顔の右側に揃え、その分、少し左肩を覗くように姿勢を取る。先頭をゆく長刀鉾の左先頭に座し笛を構えると、目の前には静粛な都大路が広がり、山鉾を待ち望む群衆の熱い視線に圧倒される。
長刀鉾より「鉾の辻」を望む
長刀鉾より「鉾の辻」を望む
 四条烏丸の交差点で出発を待つ長刀鉾の後ろには、決められた順番に次々と山や鉾が集まってくる。四条室町の交差点は「鉾の辻」とも呼ばれ、東西南北の四方すべてに巨大な鉾が控えている。その鉾がズシリと動き出し、指定の位置に揃う頃には、数多くの山たちもその間に態勢を整える。長刀鉾の後ろの隙間からその絶景を望むのも、実に贅沢な瞬間だ。「ほらほら、鶏が出てきた!」などと、緊張のひと時を楽しんでいる。
 9時。「お囃子お願いします!」との声を聞いて、太鼓方が「ウン、ソーレ!」そして「テン・・・テン・・・」と気合いのこもった太鼓の響きを聞いた音頭取が「エンヤラヤー」と威勢の良い声を上げる。グラリッといよいよ長刀鉾が動き出した。
四条烏丸の緊張の朝、日本一の朝。この朝を迎えることが、私の幸せな節目となっている。
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情報工房 2008-08-19T10:00:00+09:00
Vol. 4 「自然の移ろいに敏感な京都のDNA」 池坊由紀 http://www.coconkarasuma.com/column/column04.html
池坊由紀
池坊由紀/華道家元池坊次期家元
華道家元四十五世池坊専永の長女として生まれる。1989年11月に得度(法名:専好)し、華道家元次期四十六世に指名を受ける。次期家元として国内外でのいけばな作品の発表はもとより、日本画や彫刻など他の芸術分野とのコラボレーションなども展開。また、日本文化の振興や子どもの教育に関する委員会や対人地雷除去キャンペーンへの参加、大学での講義、全国各地での講演など、多彩な活動を行なっている。現在、池坊お茶の水学院長、日本いけばな芸術協会副会長を務める。平成15年度京都市芸術新人賞受賞。

 今、改めて与謝野晶子訳の『源氏物語』を読んでいる。なるほどと気づかされる自然の描写や、人の動きなど、千年経っても新しい発見がたくさんあり、やはりそういう変わらない魅力が、京都にはあるのだと思う。ほかの地域の皆さんが、「京都がいい」と言うのは、表面的な華やかさや楽しみというのではなく、人間の琴線に触れる本質的な部分、心を揺さぶる、あるいは心を癒すような、心の本質に関わるすべてのものを京都が兼ね備えているからではないか。心から、ああ、生きているのだなと実感できる場所が、京都なのだと思う。
 『源氏物語』に植物の記述が多く見られるように、京都は本当に自然との距離が近く、自然の移り変わりを実感できる都市であり、京都の人たちは季節感の演出に細やかな神経を使う。やはりそのことが、いけばなの発達・発展においても大きな影響を与えてきた。
 例えば、梅雨から夏の時期にかけてのいけばなには、いかにうっとうしさを追い払って涼しく見せるかという表現方法に卓越したものがある。紫陽花(あじさい)にしても寒色系の色を使い、白い縞模様の入った葉をあしらって涼やかな感じを見せる。さらに水盤のような広口の器を利用し、剣山を端に寄せて水を受けるようにする。単にクーラーで快適にするのではなく、身の回りにあるものを上手に活用して、五感で涼しさを演出するのが、京都人ならではのテクニック。安直ではない、一つの奥ゆかしい世界がそこにはある。
池坊由紀 源氏物語をlいける
池坊由紀作 立花新風体
花材/紅梅苔木・雪柳・若松・オクロレウカ・白玉椿・バンダ・フリージア・ゴムの木・玉しだ
花器/銅器・広口下蕪瓶
『世界の源氏物語』ランダムハウス講談社(2008年)/©撮影:神崎順一
 いけばなというのは、草木を観るというだけではなく、ほかの芸術や文化ともつながっていて、そこから多くのインスピレーションを得る。そういう意味では、日々いろいろな発見がある。COCON KARASUMAにある「京都シネマ」にもよく行くのだが、常にこだわりを持ってセレクトされた映画が上映されていて、そのシャープな感性に、「ああ、こういう見方もあるのか、表現の仕方もあるのか」と教えられ、次の作品に生かしたいと思うことが多い。私は烏丸通りを歩くのが好きで、朝によく散歩をするが、とても心が落ち着く。同じ通りでありながら、北へ行けば御所など緑いっぱいのエリアが広がり、南はビル群と、その対比がおもしろい。オフィス街でありながら、殺伐とした感じは全くなく、どこか温かい。COCON KARASUMAのほかにもすてきなお店や新しいレストランなどが増えていて、これからが楽しみな、可能性豊かな地域だと思う。

 京都の人たちは常に、人の心がどこにあって、どのようにして世の中が動いているのかということを、非常に敏感に察知して生きてきた。それはやはり京都のDNAではないかと思うことがある。それだけの研ぎ澄まされた感受性がベースにあったからこそ、新しい様式も生まれてきたし、京都の街も、池坊も、魅力を失わずに今に続いてきているのではないだろうか。
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情報工房 2008-07-03T18:00:00+09:00
Vol. 3 「異国との対話、醸し出す時間」 鶴岡真弓 http://www.coconkarasuma.com/column/column03.html
鶴岡真弓
鶴岡真弓/美術史・ケルト芸術文化研究者・多摩美術大学教授
1952年生まれ。立命館大学教授を経て、現職。ケルト芸術文化、ユーロ=アジア世界の装飾・デザイン史の研究家。京都で開始した「異国の装飾」の交流史発掘を続行中で、黄金・唐紙・錦織・陶磁器など、伝統の装飾芸術を「世界性」の中に位置づける研究チームを率いている。
『京都異国遺産』(平凡社)、『黄金と生命』(講談社)、『ケルトの歴史』(河出書房新社)、『装飾する魂』(平凡社)など、著書多数。

 京都というのは、古代から現代に至るまで、自らとは異なるもの、異国的なものを取り入れる意欲と力を持った都だと感じている。美しいもの、質感や艶があるものを押し付けがましくなく、訪れた人が自然に発見できるような舞台としての雰囲気を、とても洗練された形で1200年以上にわたり保ってきていると思う。例えば、ゆっくり「香を聞く」ように、空気の流れを感じるように、誰もがそこにスーッと招き入れられるような、「共感」の時空が伝統として降り積もっている。

 「こもる」という言葉がある。お酒でも繭でも食材でも、醸成・熟成するためには、自然界が必要とする時間を与え「こもらせる」ことが必要だ。盆地である京都は、自然と人間との対話、ものと人間との対話、人間同士の対話に耳をすまし、掌(たなごころ)の上で温めるように丁寧に時間をかけて変化(へんげ)させてきた。今ここにあるものに満足せずに、自分の「外」にある、一見「異なるもの」と勇気を持って出会わせて、すばらしいものを創り上げてきた。そのプロセスには知恵と技法と熟成された心が詰まっている。
 「異なるもの」と出会う積極的な勇気と、そこで醸成させた成果としては、「祇園祭の美」がもっともわかりやすく、真髄だと思う。祇園祭は、山鉾の装飾にペルシャやインド、ヨーロッパなど異国の織物やデザイン・文様が使われていることから分かる通り、インターナショナルなアート・アンド・デザインの結び目であり、世界でも貴重な祭りだ。異なるものを出会わせて変化(へんげ)を楽しませ、みんなに感動を与えている。
函谷鉾 ベルギーのタペストリー「イサクに水を給するリベカ」
函谷鉾 ベルギーのタペストリー
「イサクに水を給するリベカ」

写真提供<財団法人 函谷鉾保存会>
 京都の伝統というと京都にしかないと考えがちだけれど、京都であること、日本であること、アジアであることは、異なる世界と積極的に交わるということ。京都はそれを連綿と続けてきたし、COCON烏丸も、まさしくそのコンセプトで造られたのだと思う。ビルのファサードに配されているのは、伝統的に京都で襖紙として使われてきた唐紙。古典文様のひとつである「天平大雲」の採用は、隈 研吾さんと京都の老舗唐長さんのコラボレーションによるものだが、「唐」は中国や韓国であり、和紙と「異国」の文様が交差している。もともとは、お寺や茶室、豪商の邸など限られたサロンの中でしか味わえなかったインテリアを、開かれた公共の場にデザインしたということは、とても象徴的だ。それはやはり、自分のアイデンティティーとともに、これからも、勇気を持って異なるものと接触していく世界性を培っていくのだという心意気を語っているのではないかと思われる。
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情報工房 2008-05-23T10:00:00+09:00
Vol. 2 「今も昔も、大切な場所」 谷口キヨコ http://www.coconkarasuma.com/column/column02.html
谷口キヨコ
谷口キヨコ/タレント
兵庫県出身。現在は京都在住。“キヨピー”の愛称でおなじみの人気ディスクジョッキー。幅広い世代から支持を受け、ラジオのDJにとどまらず、テレビの司会、イベントのMCは関西を中心に活躍中。

 私は京都人ではない。京都には大学の4年間と、αステーションでDJをするようになって引っ越してきてもうすぐ10年になる。学生時代は完全に《北の方の子》で、大学もバイトも仲間で集まる場所も、北区にあった。
 河原町や木屋町(祇園は私には関係ない場所だった)を《まち》と呼び、そのまちに出るには相当の気合いと財力が必要だった。私はその辺の男子に負けないぐらいお金のない女子大生だったから。大学時代は市バスを駆使してどこにでも出掛けた。特に賀茂街道を通るバスがお気に入りだったが、御池通りまで来ると、《まちに来た!》という思いでうきうきしたこともよく覚えている。
御池通り
御池通り
 今も大好きな御池通り。空の広さを感じられるみちは、ただ行きすぎるだけではない、忙しい現実から少しだけ離れられる場所。みちを歩きながら、車に乗っていても信号待ちをしながら、空を仰ぎ見る気持ちにさせてくれる、みちだけど単なるみちじゃない、私にとっては落ち着ける場所だ。
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情報工房 2008-05-01T11:00:00+09:00
Vol. 1 「COCON KARASUMAに流れる時間」 隈 研吾 http://www.coconkarasuma.com/column/column01.html
隈研吾
隈 研吾/建築家
1954年横浜生まれ。1979年東京大学建築学科大学院修了。コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2001年より慶應義塾大学理工学部教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞、同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2002年「那珂川町馬頭広重美術館」をはじめとする木の建築でフィンランドよりスピリット・オブ・ネイチャー 国際木の建築賞受賞。近作にサントリー美術館。著書に「負ける建築」(岩波書店)「新・建築入門」(ちくま新書)

「すごい床」との出会い。
 COCON KARASUMAの設計を依頼されて、1938年に建設された旧丸紅ビルの印象は今も鮮明である。
 「すごい床だ!」と感じた。オフィスビルだと聞いていたのに、寄木細工の木の床がそこにあった。それもペラペラの今時のフローリングではない。ずっしりと木の厚みがある、本物の寄木細工の床が懐中電灯で照らされてにぶく光っていた。
 僕は建築を設計する時、とりわけ床の材料を重要視する。壁や天井の材料よりも床の材料の方が何倍も重要である。なぜなら人間の身体は直に床にさわるからである。壁にはめったにさわらない。天井にはほとんどさわらない。しかし、床にさわらずにいる事は不可能である。身体は床の材料のやわらかさ、あたたかさ、ざらざらを直接足裏で感じる事ができる。壁や天井は視覚を媒介とする。しかし、床だけは視覚のようなまどろっこしいものを媒介とせずに、直接身体に訴えてくる。だから、建築デザインというのは要するに床のデザインなんだというくらいに僕は床を大事にしている。
1階玄関ホール
 この鈍く光る木は何だろうかとサンプルを送ってみたら、何と「イペ」だという答えがかえってきた。イペは南洋の木材で日本には生えていない。耐久性があり、雨、風にさらされても30年位は長持ちする。そんな木を南洋から輸入してオフィスの床全部を作ってしまうとは、いったいどんな時代だったのだろうか、いったいどんなクライアントだったのだろうか。
寄木フローリング
 僕の想像は、1938年の京都の上空から遠く南洋の海上に到りやがて熱帯雨林のじめじめと湿った地面の上に着地した。この床の上を歩いていると、その湿り気が足裏に伝わってきて今でもぞくっとする。
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情報工房 2008-05-01T00:00:00+09:00