COCON KARASUMA:古今烏丸ウェブサイトのRSSフィード http://www.coconkarasuma.com/column/ COCON KARASUMA:古今烏丸ウェブサイトでは、各種最新情報をRSS配信しています。 ja copyrights©cocon karasuma all rights reserved. 2008-03-01T09:00:00+09:00 info@coconkarasuma.com webmaster@coconkarasuma.com http://www.coconkarasuma.com/ http://www.coconkarasuma.com/img/logo.gif Vol. 8 「古(いにしえ)と今、そして未来をつなぎたい」神谷 雅子 http://www.coconkarasuma.com/column/column08.html
京都シネマ代表 神谷雅子
神谷雅子/(株)如月社 代表取締役、京都シネマ代表、立命館大学産業社会学部教授
1980年 立命館大学文学部卒業、1990年 京都朝日シネマ支配人、2003年1月 惜しまれつつも閉館(閉館を惜しむ署名全国から7,000人以上寄せられる)。同年3月如月社を設立、2004年12月 京都シネマをCOCON烏丸に開業。2004年立命館大学産業社会学部講師、2008年同教授。2005年度京都府あけぼの賞受賞。著書に「映画館ほど素敵な商売はない」

 COCON KARASUMAの前身、旧丸紅ビル。1938年に建てられた繊維商社の本社ビル。幸いにも戦火を免れ、敗戦後連合軍占領下でGHQの京都本部が置かれたビル。その名残は、ビルの床や、趣のある階段にしっかりと残っている。
 2002年12月。まだリノベーション(再生)後の構想が固まっていなかった肌寒かったあの日。このビルに初めて足を踏み入れた日のことを鮮明に覚えている。電気は当然ない。薄暗い中、懐中電灯を頼りに地下一階から屋上まで、歩いて、見て回った。地下には理髪室があった。厨房の名残もあった。2階、3階には、畳が敷かれた展示スペースのコーナーもあった。四条烏丸という京都の真ん中に、これから新しく生まれ変わろうとするこんなビルがあったのだという驚き。そして、この場所に映画館をつくりたい。ここでなら、必ず成功させられる。何としても、ここで、という強い思い。あの日の思いが、今の京都シネマの原点だ。
 京都の新しいランドマークとしての施設を作る、という方針のもと、いくつかの構想があり、いくつものハードルを乗り越え、アート系の市民に支持される映画館への期待を寄せられて、2004年12月4日開業。お客様に「また再会できてうれしい」「開業してくれてありがとう」と声をかけられた。歴史にifはないが、「京都朝日シネマ」閉館が別の時期だったら、残念ながら「京都シネマ」は存在していない。そんなこともふと思う。
 縁、出会い、その絶妙のタイミング。チャンスの神様は前髪しかない、と言われるが、それが“前髪”かどうか、判断できるのは、じつは掴んだ後だ。4年が過ぎ、あの時「ありがとう」と言われた言葉にふさわしい映画館であり続けられているかどうか、いつも自問自答している。
京都朝日シネマ
京都朝日シネマ
 京都は、110年前、日本で初めてシネマトグラフが試写実験された場所であり、今も、二つの撮影所を持ち、映画をつくり続けている映画都市だ。日本の、世界のあらゆる国の映画を上映するだけでなく、欲張りな企画をたくさんしてきた。学生映画の特集、関西で映画をつくり続けている人たちの作品上映、京都の音楽家とのコラボレーション、無声映画「瀧の白糸」(1937年)のオリジナル曲による演奏付き上映会、科学映画講座、映画づくりワークショップなどなど。ホワイエでは、映画関連商品以外にフェアトレード商品の販売も始めた。
 COCON KARASUMAの名前に込められた思い。「古今東西の様々な文化を横軸に、京都の歴史と伝統を縦軸に、人、文化がクロスする場所 烏丸」。
 これからも、その場所にふさわしい映画館であり続けたい。
「闇の子供たち」阪本順治監督舞台挨拶
「闇の子供たち」での阪本順治監督舞台挨拶
]]>
情報工房 2008-11-15T17:00:00+09:00
Vol. 7 「創造のインスピレーションを与える町」 ジャン=ポール・オリヴィエ http://www.coconkarasuma.com/column/column07.html
ジャン=ポール・オリヴィエ
Jean-Paul OLLIVIER (ジャン=ポール・オリヴィエ)/関西日仏学館 館長、関西日仏交流会館 ヴィラ九条山 館長、京都フランス音楽アカデミー 実行委員長
1955年仏・ノルマンディー生まれ。79年フランス・経済財務省入省後、84年以降はフランス文化・通信省在職。国立パリ・オペラ座制作部長、国立ジョルジュ・ポンピドゥー芸術文化センター財務・法務部長、パリ国立近代美術館-産業創造センター取締役を歴任。ミラノ・フランス文化・言語・協力センター館長を経て、06年夏から現職。フランス文化・通信省(第一級アタシェ)、フランス外務省より出向中。フランス文化芸術勲章 オフィシエ章受勲。

2年前、関西日仏学館の館長に就任して初めて京都を訪れた。正直言って、最初はがっかりした。京都は町全体が美しい庭でできているとばかり思っていたのに、目に入るのはあまり美しいとは言い難い建物や道路、そして電線! それまで私が見た京都の写真にはそのようなものは一切写っていなかった。
ところが、時間が経つにつれ、この町では美しいものが背後に隠れていることに気がついた。京都には長い歴史と精神性があり、生活を美しく快適にする職人技へのこだわりがある。古い建物や風景や庭に美のインスピレーションが詰まっている。演劇やコンサートなどを楽しむには東京やパリの方が便利だが、私自身は京都での穏やかで静かな暮らしに最もハーモニーを感じる。賀茂川のあたりを散歩したり、円通寺の庭を見たり、行くたびにまるで違う印象を受ける銀閣寺を訪ねるのが好きだ。京都には一方で大きなハイテク企業や優秀な大学があり、必ずしも博物館化した町ではないところもよい。伝統的な美意識と共に、“未来”がある。
関西日仏学館
2003年にリニューアルした「関西日仏学館」
この京都の地にフランスからアーティストや研究者を招き、創作活動にふさわしい環境を提供しようと設立されたのが山科区にある関西日仏交流会館「ヴィラ九条山」だ。元々80年前に当時の駐日フランス大使ポール・クローデルが関西日仏学館を設立した場所なのだが、フランス語を普及する本拠地としては不便だということで、1936年に日仏学館は京大の近くへと移転し、長い間放置され廃墟となっていた。81年に取り壊し、アーティストのためのヴィラとして1992年に開館以来、音楽・造形美術・映像・文学など多彩な分野のアーティストや研究者たちが半年間滞在し、日本に関連した作品の創作に従事している。滞在中に日本人との交流を得て、帰国後再び京都に戻ってくる例も多い。
2008年10月17~26日に、COCON烏丸で日仏交流150周年および京都・パリ友情盟約締結50周年記念のイベントが開催され、フランスに注目が集まることをうれしく思う。デザインや職人の技、ラグジュアリーといったテーマは日仏共に伝統があり、ヴィラ九条山に滞在するアーティストの作品がハイクオリティな生活文化を提案するCOCON烏丸で紹介されるのはとても意義深い。フランスのアーティストが様々な人たちと触れ合うことにより、今後、日本とフランスが共同で作品を創るような新たな企画が生まれることを期待したい。
日仏交流150周年
「日仏交流150周年」のロゴ
右のQRコードを携帯で読み込むと「日仏交流150周年記念サイト」にアクセスできます。
]]>
情報工房 2008-10-17T10:00:00+09:00
Vol. 6 「洛中・洛外・京都伏見」 増田 泉彦 http://www.coconkarasuma.com/column/column06.html
月の桂 増田泉彦
増田 泉彦/「月の桂」醸造元 (株)増田德兵衞商店 代表取締役社長
昭和30年、京都・伏見生まれ。大学卒業後、東京日本橋の酒類問屋に勤務。昭和56年、増田德兵衞商店入社、常務取締役就任。平成3年から現職。
平成4年から伏見の特定農家と契約し自ら田植え・稲刈りをして無農薬有機栽培米「祝」を育て「平安京」や「祝米・純米吟醸にごり酒」を発売。近年「抱腹絶倒」「吃驚仰天」などユニークな製品も発売している。
日本酒造組合中央会 理事・海外戦略委員長
伏見酒造組合 副理事長

大学を出て東京の酒問屋に5年ほど勤め、28歳で京都に戻ると「京都伝統産業青年会」からお誘いがあった。お酒も伝統産業の一環ですよと言われて、ひょこっと顔を出したのがツボにはまった。伝統産業といってもお酒とはあまり縁のない、織り、染め、焼物、木工、石材といった団体ばかりだった。もっと枠を広げていこうということになって、漬物とか、京菓子とか、京都の伝統野菜とか、そういう人たちを巻き込んでいった。帰ってきたばかりの私には、伝統産業に関わる方々にお会いできたのは、知ってるようで知らない私にとって京都の脈々とした人脈と繋がるきっかけになった。父の時代からのつながりも大切に、また新しい視点での広がりや、清酒を組み合わせての展開、後にパリでの茂山狂言の皆さんとの講演に酒は付き物とわざわざラベルまで創っていただいたご縁も、京都を中心としたワールドワイドな大きなつながりである。

酒造りでは水と米が欠かせない。伏見の銘水は言うまでもないが、極力京都の米と水で醸したいと、伏見で田植えをさせてもらって足掛け19年、今では御所の4倍の広さ約20ヘクタールにもなった。田んぼには全部井戸を掘って地下水で育てている。もちろん無農薬で。頑張り屋の農家と出会い、人も米も相性がいいのではとの思いからだが、はじめてみるとアグリカルチャーだけに文化であると、奥の深さに未だに毎年毎年が初心者で在ると、謙虚にお酒とお米の対話の絡みの妙なるを実感している。
ただ醸して造るだけじゃどこの蔵も同じである、何となくあそこのおやじがいるから買ってやろうとか、やはり酒は季節性と個性が一番と思っている。
この妙なこだわりは学生時代に遡る。フランスのワイン造りの連中から「畦道が1本違えばブドウの味が違う」と聞かされて、「くそっ、こいつらに負けたらいかん」と思った。ブルゴーニュの歴史はたかだか220年(フランス革命で一度なくなっている)、うちは350年続いているから、負けたらいかんと思った。おかげさまで今ではブルゴーニュやボルドーの連中が見学に来られたりするまでになった。
月の桂 酒蔵正面
京都で造って京都の人に飲んでもらうこだわりは京都人気質だろうか?(でも意外と京の人は京都ものはほめてくれない・・・・笑)

海外に日本酒を広めに行くと、商売の生業が京都にあってよかった、とつくづく感じる。全国に酒造メーカーが1,600社あるけれど、文化の味を表現するのに「KYOTO」の一言で通じるから。知名度もさることながら、音の響きが心地よく感じるのかも知れない。私は伏見の清酒のPRも兼ねて、グローバルに展開するにはこの「KYOTO」の音感と知名度が重要と思った。それで「伏見」の頭に「京都」を付けて「京都・伏見」でキャンペーンするように取り組んでいる。
ずっと伏見で暮らしていたので、市内に行くときは「ちょっと京都に行ってきます」と言って京都に行った。同じ京都でもこんな言い方が好きだった。四条河原町から烏丸界隈のいろんなものに出会えるワクワクするような感覚は今も変わらない。洛中・洛外で言えば、伏見や山科は洛外になるから、一種の憧れみたいなものだったようだ。
今年で4年目になるが、αステーションと新風館と組んで「α-Sake Bar」なるものをさせてもらっている。この場所は特に、若い女性に受けていて、日本酒の新しい出会いの場所として賑わいがある。烏丸通りは三条界隈が好みだが、残念に思うのはやはり、鉄筋でも古い建物が消えていくこと。木造とかレンガ造りとか、伝統的な造りの建屋が減っていくのは寂しい限りだ。まだまだ京都にしか出来ないことを、京都人の問題意識を益々研ぎ澄まし、COCONも温故知新の昔の名残をとどめていてくれればいいな、と洛外から洛中へ思いを馳せている。
]]>
情報工房 2008-09-19T17:15:00+09:00
Vol. 5 「日本一の四条烏丸」畑 正高 http://www.coconkarasuma.com/column/column05.html
松栄堂社長 畑正高氏
畑 正高/(株)松栄堂 代表取締役社長
昭和29年 京都生まれ。大学卒業後、香老舗 松栄堂に入社。平成10年、同社代表取締役社長に就任。
香文化普及発展のため国内外での講演・文化活動にも意欲的に取り組む。平成16年ボストン日本協会よりセーヤー賞を受賞。 環境省 かおり環境部会委員、同志社女子大学非常勤講師などの公職も務める。
著書に「香三才」(東京書籍)、関連書籍として「香千載」(光村推古書院)などがある。

 京都の金融街として親しまれている四条烏丸。京都の地図を広げると、市街地の中央に位置する十字交差点。金融街として活力のある日々を送ると同時に、商店街の入り口としても親しまれている。近くには、京の台所・錦市場や繊維問屋街で有名な室町も控え、この界隈の賑わいは京都の活力のバロメーターと言って過言では無い。
 日頃は実に煩雑なこの交差点が、一年に一度だけ空気を改め特別の朝を迎える。7月17日午前9時、あの祇園祭の山鉾巡行はこの交差点から出発する。平成20年のその朝は、歴史に残る快晴だった。東にまっすぐ伸びる四条通の彼方には、東山を背にして八坂神社のお社が遠望できる。日本一の朝日は、その社殿の上から、山鉾巡行を待つ人々の中に盛夏の陽射しを射し込んでいた。
 昨夜まで、数日間続く宵山に連日数十万人の人出があって、祭りの興奮は高潮している。しかし、この朝を迎えると人々のまなざしは一変して、街は静粛な緊張感を迎える。幸せなことに、私は満十歳の時からこのお祭りに縁を得て、四十数年間、毎年のようにこの清々しい朝を仲間とともに迎えてきた。
 私は、祭礼の先頭を行く長刀鉾の囃子方として笛を吹いている。子どものときに鉦方に参加して、24歳の時、笛方に転じた。わが囃子方は80名ほど。小学校の子供から70歳代の長老まで、日常の仕事などまったく無関係に一切の利害関係もなく、ただ祭囃子のためだけに毎年みんなが参集してくる。年齢の序列に対する意識にはとても厳しいけじめがあって、それが自然と各自の胸の中に責任感や誇りを育んでいる。長刀鉾の上にはおおよそ45人ほどのメンバーが乗り込む。他に稚児の関係が10数名。8畳ほどの空間は、蒸し風呂と化す。左右の欄縁が囃子方の席で、それぞれに9名ずつ半身を外へ乗り出すように腰を掛ける。その左側一番先頭は、笛方の中堅リーダーが務める席。私たちの吹く能管は両手を顔の右側に揃え、その分、少し左肩を覗くように姿勢を取る。先頭をゆく長刀鉾の左先頭に座し笛を構えると、目の前には静粛な都大路が広がり、山鉾を待ち望む群衆の熱い視線に圧倒される。
長刀鉾より「鉾の辻」を望む
長刀鉾より「鉾の辻」を望む
 四条烏丸の交差点で出発を待つ長刀鉾の後ろには、決められた順番に次々と山や鉾が集まってくる。四条室町の交差点は「鉾の辻」とも呼ばれ、東西南北の四方すべてに巨大な鉾が控えている。その鉾がズシリと動き出し、指定の位置に揃う頃には、数多くの山たちもその間に態勢を整える。長刀鉾の後ろの隙間からその絶景を望むのも、実に贅沢な瞬間だ。「ほらほら、鶏が出てきた!」などと、緊張のひと時を楽しんでいる。
 9時。「お囃子お願いします!」との声を聞いて、太鼓方が「ウン、ソーレ!」そして「テン・・・テン・・・」と気合いのこもった太鼓の響きを聞いた音頭取が「エンヤラヤー」と威勢の良い声を上げる。グラリッといよいよ長刀鉾が動き出した。
四条烏丸の緊張の朝、日本一の朝。この朝を迎えることが、私の幸せな節目となっている。
]]>
情報工房 2008-08-19T10:00:00+09:00
Vol. 4 「自然の移ろいに敏感な京都のDNA」 池坊由紀 http://www.coconkarasuma.com/column/column04.html
池坊由紀
池坊由紀/華道家元池坊次期家元
華道家元四十五世池坊専永の長女として生まれる。1989年11月に得度(法名:専好)し、華道家元次期四十六世に指名を受ける。次期家元として国内外でのいけばな作品の発表はもとより、日本画や彫刻など他の芸術分野とのコラボレーションなども展開。また、日本文化の振興や子どもの教育に関する委員会や対人地雷除去キャンペーンへの参加、大学での講義、全国各地での講演など、多彩な活動を行なっている。現在、池坊お茶の水学院長、日本いけばな芸術協会副会長を務める。平成15年度京都市芸術新人賞受賞。

 今、改めて与謝野晶子訳の『源氏物語』を読んでいる。なるほどと気づかされる自然の描写や、人の動きなど、千年経っても新しい発見がたくさんあり、やはりそういう変わらない魅力が、京都にはあるのだと思う。ほかの地域の皆さんが、「京都がいい」と言うのは、表面的な華やかさや楽しみというのではなく、人間の琴線に触れる本質的な部分、心を揺さぶる、あるいは心を癒すような、心の本質に関わるすべてのものを京都が兼ね備えているからではないか。心から、ああ、生きているのだなと実感できる場所が、京都なのだと思う。
 『源氏物語』に植物の記述が多く見られるように、京都は本当に自然との距離が近く、自然の移り変わりを実感できる都市であり、京都の人たちは季節感の演出に細やかな神経を使う。やはりそのことが、いけばなの発達・発展においても大きな影響を与えてきた。
 例えば、梅雨から夏の時期にかけてのいけばなには、いかにうっとうしさを追い払って涼しく見せるかという表現方法に卓越したものがある。紫陽花(あじさい)にしても寒色系の色を使い、白い縞模様の入った葉をあしらって涼やかな感じを見せる。さらに水盤のような広口の器を利用し、剣山を端に寄せて水を受けるようにする。単にクーラーで快適にするのではなく、身の回りにあるものを上手に活用して、五感で涼しさを演出するのが、京都人ならではのテクニック。安直ではない、一つの奥ゆかしい世界がそこにはある。
池坊由紀 源氏物語をlいける
池坊由紀作 立花新風体
花材/紅梅苔木・雪柳・若松・オクロレウカ・白玉椿・バンダ・フリージア・ゴムの木・玉しだ
花器/銅器・広口下蕪瓶
『世界の源氏物語』ランダムハウス講談社(2008年)/©撮影:神崎順一
 いけばなというのは、草木を観るというだけではなく、ほかの芸術や文化ともつながっていて、そこから多くのインスピレーションを得る。そういう意味では、日々いろいろな発見がある。COCON KARASUMAにある「京都シネマ」にもよく行くのだが、常にこだわりを持ってセレクトされた映画が上映されていて、そのシャープな感性に、「ああ、こういう見方もあるのか、表現の仕方もあるのか」と教えられ、次の作品に生かしたいと思うことが多い。私は烏丸通りを歩くのが好きで、朝によく散歩をするが、とても心が落ち着く。同じ通りでありながら、北へ行けば御所など緑いっぱいのエリアが広がり、南はビル群と、その対比がおもしろい。オフィス街でありながら、殺伐とした感じは全くなく、どこか温かい。COCON KARASUMAのほかにもすてきなお店や新しいレストランなどが増えていて、これからが楽しみな、可能性豊かな地域だと思う。

 京都の人たちは常に、人の心がどこにあって、どのようにして世の中が動いているのかということを、非常に敏感に察知して生きてきた。それはやはり京都のDNAではないかと思うことがある。それだけの研ぎ澄まされた感受性がベースにあったからこそ、新しい様式も生まれてきたし、京都の街も、池坊も、魅力を失わずに今に続いてきているのではないだろうか。
]]>
情報工房 2008-07-03T18:00:00+09:00
Vol. 3 「異国との対話、醸し出す時間」 鶴岡真弓 http://www.coconkarasuma.com/column/column03.html
鶴岡真弓
鶴岡真弓/美術史・ケルト芸術文化研究者・多摩美術大学教授
1952年生まれ。立命館大学教授を経て、現職。ケルト芸術文化、ユーロ=アジア世界の装飾・デザイン史の研究家。京都で開始した「異国の装飾」の交流史発掘を続行中で、黄金・唐紙・錦織・陶磁器など、伝統の装飾芸術を「世界性」の中に位置づける研究チームを率いている。
『京都異国遺産』(平凡社)、『黄金と生命』(講談社)、『ケルトの歴史』(河出書房新社)、『装飾する魂』(平凡社)など、著書多数。

 京都というのは、古代から現代に至るまで、自らとは異なるもの、異国的なものを取り入れる意欲と力を持った都だと感じている。美しいもの、質感や艶があるものを押し付けがましくなく、訪れた人が自然に発見できるような舞台としての雰囲気を、とても洗練された形で1200年以上にわたり保ってきていると思う。例えば、ゆっくり「香を聞く」ように、空気の流れを感じるように、誰もがそこにスーッと招き入れられるような、「共感」の時空が伝統として降り積もっている。

 「こもる」という言葉がある。お酒でも繭でも食材でも、醸成・熟成するためには、自然界が必要とする時間を与え「こもらせる」ことが必要だ。盆地である京都は、自然と人間との対話、ものと人間との対話、人間同士の対話に耳をすまし、掌(たなごころ)の上で温めるように丁寧に時間をかけて変化(へんげ)させてきた。今ここにあるものに満足せずに、自分の「外」にある、一見「異なるもの」と勇気を持って出会わせて、すばらしいものを創り上げてきた。そのプロセスには知恵と技法と熟成された心が詰まっている。
 「異なるもの」と出会う積極的な勇気と、そこで醸成させた成果としては、「祇園祭の美」がもっともわかりやすく、真髄だと思う。祇園祭は、山鉾の装飾にペルシャやインド、ヨーロッパなど異国の織物やデザイン・文様が使われていることから分かる通り、インターナショナルなアート・アンド・デザインの結び目であり、世界でも貴重な祭りだ。異なるものを出会わせて変化(へんげ)を楽しませ、みんなに感動を与えている。
函谷鉾 ベルギーのタペストリー「イサクに水を給するリベカ」
函谷鉾 ベルギーのタペストリー
「イサクに水を給するリベカ」

写真提供<財団法人 函谷鉾保存会>
 京都の伝統というと京都にしかないと考えがちだけれど、京都であること、日本であること、アジアであることは、異なる世界と積極的に交わるということ。京都はそれを連綿と続けてきたし、COCON烏丸も、まさしくそのコンセプトで造られたのだと思う。ビルのファサードに配されているのは、伝統的に京都で襖紙として使われてきた唐紙。古典文様のひとつである「天平大雲」の採用は、隈 研吾さんと京都の老舗唐長さんのコラボレーションによるものだが、「唐」は中国や韓国であり、和紙と「異国」の文様が交差している。もともとは、お寺や茶室、豪商の邸など限られたサロンの中でしか味わえなかったインテリアを、開かれた公共の場にデザインしたということは、とても象徴的だ。それはやはり、自分のアイデンティティーとともに、これからも、勇気を持って異なるものと接触していく世界性を培っていくのだという心意気を語っているのではないかと思われる。
]]>
情報工房 2008-05-23T10:00:00+09:00
Vol. 2 「今も昔も、大切な場所」 谷口キヨコ http://www.coconkarasuma.com/column/column02.html
谷口キヨコ
谷口キヨコ/タレント
兵庫県出身。現在は京都在住。“キヨピー”の愛称でおなじみの人気ディスクジョッキー。幅広い世代から支持を受け、ラジオのDJにとどまらず、テレビの司会、イベントのMCは関西を中心に活躍中。

 私は京都人ではない。京都には大学の4年間と、αステーションでDJをするようになって引っ越してきてもうすぐ10年になる。学生時代は完全に《北の方の子》で、大学もバイトも仲間で集まる場所も、北区にあった。
 河原町や木屋町(祇園は私には関係ない場所だった)を《まち》と呼び、そのまちに出るには相当の気合いと財力が必要だった。私はその辺の男子に負けないぐらいお金のない女子大生だったから。大学時代は市バスを駆使してどこにでも出掛けた。特に賀茂街道を通るバスがお気に入りだったが、御池通りまで来ると、《まちに来た!》という思いでうきうきしたこともよく覚えている。
御池通り
御池通り
 今も大好きな御池通り。空の広さを感じられるみちは、ただ行きすぎるだけではない、忙しい現実から少しだけ離れられる場所。みちを歩きながら、車に乗っていても信号待ちをしながら、空を仰ぎ見る気持ちにさせてくれる、みちだけど単なるみちじゃない、私にとっては落ち着ける場所だ。
]]>
情報工房 2008-05-01T11:00:00+09:00
Vol. 1 「COCON KARASUMAに流れる時間」 隈 研吾 http://www.coconkarasuma.com/column/column01.html
隈研吾
隈 研吾/建築家
1954年横浜生まれ。1979年東京大学建築学科大学院修了。コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2001年より慶應義塾大学理工学部教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞、同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2002年「那珂川町馬頭広重美術館」をはじめとする木の建築でフィンランドよりスピリット・オブ・ネイチャー 国際木の建築賞受賞。近作にサントリー美術館。著書に「負ける建築」(岩波書店)「新・建築入門」(ちくま新書)

「すごい床」との出会い。
 COCON KARASUMAの設計を依頼されて、1938年に建設された旧丸紅ビルの印象は今も鮮明である。
 「すごい床だ!」と感じた。オフィスビルだと聞いていたのに、寄木細工の木の床がそこにあった。それもペラペラの今時のフローリングではない。ずっしりと木の厚みがある、本物の寄木細工の床が懐中電灯で照らされてにぶく光っていた。
 僕は建築を設計する時、とりわけ床の材料を重要視する。壁や天井の材料よりも床の材料の方が何倍も重要である。なぜなら人間の身体は直に床にさわるからである。壁にはめったにさわらない。天井にはほとんどさわらない。しかし、床にさわらずにいる事は不可能である。身体は床の材料のやわらかさ、あたたかさ、ざらざらを直接足裏で感じる事ができる。壁や天井は視覚を媒介しかし、床だけは視覚のようなまどろっこしいものを媒介とせずに、直接身体に訴えてくる。だから、建築デザインというのは要するに床のデザインなんだというくらいに僕は床を大事にしている。とする。
1階玄関ホール
 この鈍く光る木は何だろうかとサンプルを送ってみたら、何と「イペ」だという答えがかえってきた。イペは南洋の木材で日本には生えていない。耐久性があり、雨、風にさらされても30年位は長持ちする。そんな木を南洋から輸入してオフィスの床全部を作ってしまうとは、いったいどんな時代だったのだろうか、いったいどんなクライアントだったのだろうか。
寄木フローリング
 僕の想像は、1938年の京都の上空から遠く南洋の海上に到りやがて熱帯雨林のじめじめと湿った地面の上に着地した。この床の上を歩いていると、その湿り気が足裏に伝わってきて今でもぞくっとする。
]]>
情報工房 2008-05-01T10:00:00+09:00